部長をミュートしたら、本当に声が消えた。
朝の会議室で、部長の口はずっと動いている。けれど、何も聞こえない。
昨夜入れたアプリの新機能だ。連絡先の名前を押して「ミュート」にすると、その人の声は、現実でも聞こえなくなる。解除したければ、もう一度押すだけ。簡単だ。
一覧の一番上には「自分」という項目があった。何これ、と笑って、指が触れた。あわてて離した。
昼は、先輩の自慢話を消した。夕方は、母からの電話の小言を消した。
満員電車の大声も、隣の席のため息も、順番に消していく。
世界はびっくりするほど静かで、にやけるのを隠すのに苦労した。
帰り道、一覧を開こうとして、やめた。解除は、明日でいい。
アパートの鍵を回す。誰もいない部屋に、いつもの癖で言った。
「ただいま」
自分の声だけが、どこにもなかった。
