美咲が死んでから、私の部屋の鏡は、一秒遅れるようになった。
歯を磨けば、一秒あとに鏡の私も歯を磨く。手を振れば、少し迷ったように振り返す。
疲れているんだと思った。美咲のお葬式では、ずっと泣いていたから。
三日目の夜、鏡の私が先に笑った。
私は笑っていなかった。
洗面所を飛び出し、妹の莉子と一緒に寝た。理由を聞かれたけれど、怖い夢を見たと嘘をついた。
翌朝、莉子が言った。
「お姉ちゃん、夜中に歯磨きしてた?」
「してないよ」
「じゃあ、美咲ちゃんかな」
妹は、何でもないことのようにパンをかじった。
「ずっと、お姉ちゃんの声の練習してた」
その日、洗面所の鏡にバスタオルを掛けた。
夕方になると、タオルの向こうから声がした。
「莉子、お風呂空いたよ」
私の声だった。
莉子が廊下へ出てきたので、腕を掴んだ。妹は私と洗面所を交互に見て、唇を結んだ。
それから私たちは、鏡を見なかった。
歯は台所で磨いた。髪はお互いに結んだ。莉子は文句を言わず、手鏡まで裏返して引き出しにしまった。
声だけが、毎日少しずつ上手になった。
「莉子、起きて」
「莉子、忘れ物」
「莉子、大丈夫?」
最後の言い方は、私にそっくりだった。妹が転んだとき、膝を覗き込みながら言う声。
七日目、莉子が学校から帰らなかった。
女子校に電話をすると、女の先生は不思議そうに答えた。
「お姉さんがお迎えに来ましたよ。妹さん、体調が悪いって」
私は洗面所へ走った。
床に、バスタオルが落ちていた。
鏡には誰も映らなかった。
私が正面に立っても、向こうには無人の洗面所があるだけだった。こちらにはない、小さな赤い靴が二足、揃えて置かれていた。
美咲が最後に履いていた靴だった。
水道の下に、莉子の髪留めが落ちていた。
拾おうとして、鏡の奥で何かが動いた。
莉子だった。
声は聞こえない。妹は鏡の向こうから両手で叩いていた。泣きながら、何度も同じ形に口を動かしていた。
お、ね、え、ちゃ、ん。
私は鏡に爪を立てた。叩いた。椅子もぶつけた。傷一つつかなかった。
やがて莉子の後ろに、美咲が立った。
お葬式の写真と同じ顔で、妹の肩に顎を載せた。
鏡の内側が曇り、指でなぞった文字が浮かんだ。
〈こんどは、ちゃんと返事してね〉
私は思い出した。
美咲から最後に来たメッセージ。
〈ねえ、起きてる?〉
面倒で、寝たふりをした。
廊下で玄関の扉が開いた。
私の声がした。
「莉子、ただいま」
鏡の向こうで、妹が必死に首を振った。
「莉子?」
声が近づいてくる。
私は口を押さえた。
すると、背後から伸びた冷たい手が、私の指を一本ずつほどき始めた。
