水瀬シズクが朝から作った水は、鼻水よりも少なかった。
掌の真ん中で、透明な粒が震えている。 丸い。小さい。うっかり息を吹きかけたら飛んでいきそうだ。 両手を組んで、指を曲げて、腹の奥にあるはずの忍力を探して。そうやってようやく出てきた一滴を、シズクは睨んだ。
「……もうちょい」
水の粒は大きくならない。 額から落ちた汗のほうが、よほど勢いよく地面を濡らした。
朝の稽古場には、まだ誰もいなかった。 石塀の向こうでは、水路を流れる水がさらさらと鳴っている。屋根の間を抜けてきた日差しが、並んだ稽古用の木桶を半分だけ照らしていた。 シズクは備え付けの台から椀を一つ取ると、その底へ掌の水を落とした。 ぽつ、と音がした気がした。 底板に黒い丸ができる。たったそれだけだった。
水の都市村で生まれた子供は、まず水を出すところから忍法を習う。 その水を動かす。形を変える。いくつかに分ける。 そこから先に、認定されたAやSの忍法がある。 シズクは、そのずっと手前で止まっていた。 十歳になった今も。
椀の縁には、爪で浅い傷をつけてある。 底から指一本ぶんの高さ。 今日こそ、ここまで。 昨日もそう決めたし、その前の日も同じことを決めた。
「あと何滴だよ、これ」
「数えてみようか」
後ろから声がして、シズクは椀を腹に引き寄せた。 入口に御影レイが立っていた。きちんと整えた黒髪。汚れのない稽古着。同い年なのに、寝癖を指摘されたところを見たことがない。 その淡い青の目が、シズクの跳ねた前髪に向いた。
「今日は右に倒れてる」 「髪はいいんだよ」 「じゃあ、水の話?」 「そっちもいい」
レイは笑って、隣にしゃがんだ。 椀を覗き込まれる前に、シズクは底を傾けた。濡れたところが広がった。少し増えたように見えたが、すぐに余計なことをしたと思った。
「来るの、早くない?」 「シズクが早いから」 「俺は別に、待ってねえし」 「うん。だから勝手に来た」
それなら仕方ない。 シズクは椀を地面に戻した。 レイの隣にいると、同じ年のくせにと思うことが多い。どうして自分だけ、指の位置を確かめないと印が結べないのか。どうしてこいつは、息をするみたいに忍法を使うのか。 それでも、来ないでほしいとは思わなかった。
六歳の頃、初めてレイを遊びに誘った時も、こんなふうに二人でしゃがんでいた。 水路に葉っぱを浮かべて、どちらが先に橋の下へ着くか競ったのだ。 レイは流れの速い真ん中を選んだ。シズクは壁に近いほうを選んだ。 真ん中には、石が一つ沈んでいた。 そこでレイの葉っぱはひっくり返り、シズクの葉っぱだけが橋をくぐった。 あの時のレイの顔を、今でも覚えている。 少し口を開けて、沈んだ葉っぱを見つめていた。シズクが笑うと、もう一回、とすぐに言った。 次の日も、その次の日も、負けたほうがもう一回と言った。
「何か、僕の顔についてる?」
目の前のレイに聞かれ、シズクは首を振った。
「昔、お前の葉っぱが沈んだの、思い出した」 「あれ、石があったんだよね」 「見てなかったお前が悪い」 「四年前の勝ちを、まだ言う?」 「勝ちは勝ちだろ」
これからも使える勝ちが、もう少し欲しかった。 シズクは椀の縁から手を離した。
「見せて」
今度は椀を隠さずに言った。
「ゆっくりな。途中で速くするの、なし」 「わかった」
レイが両手を組む。 シズクも同じように指を動かした。親指。人差し指。そこから、小指を折る。普段なら一息で終わる動作を、レイは一つずつ止めてくれた。 最後に掌を開く。 レイの手の上に、拳ほどの水が生まれた。
透き通った球の向こうで、石塀が逆さまに映っている。 レイが指を少し離すと、球は二つに分かれた。もう一度動かすと、四つになった。 シズクは思わず身を乗り出した。
「今の。どうやった?」 「分けるところを決めて、流れを細くして」 「流れって、どこ」 「掌から先の……」
レイは自分の手を見た。 それから、シズクの手を見た。 二人の間で、水の球がゆっくり回っていた。
「ごめん。説明、うまくできない」 「できるのに?」 「できるのと、教えるのは違うみたい」
シズクは黙って、もう一度印を結んだ。 掌の上に、一滴。 さっきと同じ大きさだった。 流れを細くする。分けるところを決める。レイの言葉を頭の中で繰り返してみても、指先が少し熱くなるだけで、何も変わらない。 水を増やそうと力を込めると、今度は腕まで固くなった。
「肩、上がってる」 「わかってる」
わかっていたのに、下げると印までほどけた。 一滴が膝に落ちる。 シズクは袖で乱暴に拭いた。 母が縫い直したところに爪が引っかかり、慌てて手を止めた。
「もう一回」
やり直しても、一滴。 息を長く吐いても、一滴。 レイが水を桶へ落とし、自分と同じ速さで印を結んでくれても、結果は同じだった。
喉が渇いた。 水を出す稽古で喉が渇くなんて、ひどい話だ。
「少し休もう」 「平気」 「指、震えてるよ」
シズクは拳を握った。 隠せたと思ったのは、一瞬だけだった。
「一回も、できてない」
言ってから、唇を噛む。 レイに怒ったって仕方がない。わかっている。でも、何でもない顔で休もうと言えるのは、何でもできるからだと思ってしまった。 地面に置いた椀を見る。 黒かった底が、もう乾きかけている。
「できるまでやってたら、昼になるよ」 「昼までにできりゃいいだろ」 「その次は?」
シズクは答えられなかった。 昨日は夕方までやった。 帰り道で母の手伝いに使う指がうまく曲がらなくて、紐を結ぶだけのことに腹を立てた。それをまた見られたくはなかった。
レイは掌の水をまとめてから、空の木桶へ落とした。 底を打つ音が、やけに大きかった。
「僕、喉渇いた。水場まで来ない?」
返事の代わりに、シズクは立った。 椀を元の台へ置き、二人で稽古場の隅へ歩く。 そこには水路から水を引いた細い竹の樋があった。いつもなら、下に据えた石鉢へ絶えず水が落ちている。 今日は、先端が乾いていた。
「出てない」
レイが樋の口を指でつつく。 その上を覗き込んだシズクは、石塀の脇へ回った。
「向こうは流れてるのに」 「詰まったのかな。水、通してみようか」
シズクはうなずいた。 レイが掌に水を作って、樋の上流側へ静かに注ぐ。澄んだ水は竹の中を走り、半ばで消えた。 石鉢には届かない。 代わりに、樋の下の土がじわりと黒くなった。
「待って。もう一回」
今度はしゃがんで、下から見る。 竹と竹の継ぎ目に、水が溜まっていた。そこから支えの杭を伝って、地面へ落ちている。 シズクは濡れた土へ指を入れた。 片側の杭がぐらぐらした。
「ここ、下がってる」 「折れてる?」 「ううん。土が流れたんだ。だから、こっちの竹が低くなってる」
言いながら樋を持ち上げると、残っていた水が先へ走った。 石鉢に、小さな音が戻った。
「あ、出た」
レイの声が明るくなる。 シズクが手を離すと、また止まった。
「直せる?」 「たぶん。そこ、持ってて」
指の震えが収まるまで石塀に手を置き、それから場所を交代した。 シズクは足元から平たい小石を拾った。杭の脇へ差し込んでみるが、薄すぎた。もう一つ拾う。今度は厚すぎて、樋が反対へ傾く。 レイが顔をしかめた。
「これ、ずっと持ってるの?」 「お前なら、水浮かせて運べるだろ」 「毎朝ここに立つの、嫌だよ」
シズクは吹き出した。 同い年の天才が、朝から晩まで水場の代わりをしているところを想像したら、少しだけ胸がすいた。
「御影レイの仕事、竹の代わり」 「水の出る量は負けないけどね」 「それは知ってる」
笑いながら、最初の石を裏返す。 端が斜めになっていた。シズクはその細い側から、杭と地面の間へ押し込んだ。 ほんの少しずつ。 水が継ぎ目を越える音を聞きながら、途中で止める。
「離していいぞ」
レイがそっと指をどけた。 樋は下がらなかった。 水は石鉢へ流れ続けている。 シズクは少し待ってから、二つ目の石を杭の反対側へ置いた。つま先で周りの土を寄せ、隙間を埋める。
「これなら、しばらく大丈夫」
泥だらけの指を流れに差し入れた。 ひんやりした水が、爪の間の土を剥がしていく。 レイも手を洗い、両手ですくって飲んだ。シズクはその横で、少しだけ得意になっていた。 忍法は一つも使っていない。 でも、レイができなかったことを、自分がした。
シズクはしゃがみ直して、もう一度手を伸ばしかけた。 水が流れるのを見ると、もっと何かできる気がする。 でも、指先が土に触れる前に、手を引っ込めた。 さっきは、押し込みすぎると反対に傾いたのだ。もう少し、もう少しと触っていたら、せっかく直したところを壊すかもしれない。
「終わり?」 「終わり。これ以上いじると、変になる」
言って、樋から離れた。 忍法の稽古でも、そんなふうにやめられたらいいのにと思った。 母の仕事なら、次に何をすればいいか、少しはわかる。濡れた場所も、傾いた竹も、目で確かめられる。 自分の掌の中は、いくら見てもわからない。
「よくわかったね」 「母さんの仕事、見てるから」 「僕には、竹が詰まってるように見えた」 「下、濡れてただろ」 「ああ、うん」 「水がなくなったわけじゃないんだから、どっかには行ってるんだよ」
そう言うと、レイはもう一度しゃがんだ。 さっきまでシズクが見ていた場所から、継ぎ目を覗いている。 シズクは先に立ち上がった。 膝には泥がついていた。払い落とそうとして、袖まで汚した。 母の針仕事を一つ増やすようなことには、ならずに済んだらしい。
「修繕の仕事、向いてるのかもね」
レイが言った。 何でもない声だった。 それなのに、さっきまで温かかった胸のあたりが、きゅっと狭くなった。
「……お前も、そう思う?」
レイが立ち上がる。 シズクは自分の膝を見ていた。
「忍者じゃなくて、そっちにしろって」 「そういう意味じゃないよ」 「わかってる」
また、わかっていないのに言った。 道具を直すのは嫌いじゃない。母の仕事を嫌だと思ったこともない。 だけど、レイと同じ道を歩こうとすると、別の道もあると言われる。 自分の前だけに、そんな道が何本も増えていく。
「ソウマさんも、十五で一番になったんだろ」 「うん」 「俺、あと五年あっても、一滴かもしれない」
口に出したら、急に本当になりそうで怖かった。 今十八歳の、水の村の長。レイの兄。 その人より強くなりたい、なんて話ではない。 五年後も、十年後も、この場所で同じように椀の底を睨んでいたら。 その時、隣にレイがいるとは思えなかった。
レイは少しの間、何も言わなかった。 大丈夫だとも、できるようになるとも言わなかった。 樋を流れる水の音が、二人の間を通っていった。
「五年は、待ってから考えようよ」 「長すぎるだろ」 「じゃあ、明日」
シズクが顔を上げると、レイは稽古場を指さした。
「明日もここでやろう。僕、説明を考えてくるから」 「今日と同じだったら?」 「説明が悪かったんだって、文句言っていい」 「毎日言うぞ」 「それはちょっと嫌だな」
レイが笑った。 その袖にも、泥がついていた。 樋を持ち上げている間に汚れたのだろう。きれいだった布に、シズクの膝と同じ茶色の筋がある。 シズクはそこを見て、息を吐いた。
「明日も、俺のほうが早いからな」 「僕が先に来てたら?」 「それは明日決める」 「ずるい」
二人で稽古場へ戻った。 塀の影は、もう木桶から離れている。稽古を始めてから、一時間が過ぎていた。 シズクは台からさっきの椀を取り、傷のある縁を親指でなぞった。 今日はここまで溜まらなかった。 今から続けても、たぶん届かない。 指を開いてみる。もう震えてはいなかったが、だるさは残っていた。
「帰る?」
レイに聞かれて、うなずいた。 その前に椀を拭こうとして、シズクは手を止めた。 底の端に、ほんの小さな濡れ跡が残っている。 水を傾けて、少しでも多く見せようとした時の跡だった。 レイにも、見えていたのかもしれない。
増えなかった水をレイに見られるのは、やっぱり嫌だ。でも、見せる相手が明日も来ることまで、嫌なわけじゃなかった。
シズクは椀を伏せて、台へ戻した。 明日は傾けずに見せよう。 出せたぶんだけ、真ん中に落とす。 それで少なかったら、また文句を言えばいい。レイは、言っていいと言ったのだから。
「なあ。明日の説明」 「うん?」 「流れ、とか、感じ、とか、そういうのなしで」 「難しい注文だなあ」 「天才だろ」
レイは困った顔をして、それから笑った。 シズクも少し笑って、並んで入口へ向かう。 背中のほうで、水場の水が石鉢を叩いていた。 明日の朝も、きっとあの音がする。
