一滴の通り道

ぼる

水の村の水路が止まったのは、夏の盛りの朝だった。
シズクが顔を洗おうと外の溜め桶へ行くと、桶の底に浅く残った水が、ぬるく濁っていた。いつもなら縁から溢れて、足もとの石畳を濡らしているはずの桶だ。耳を澄ますと、屋根の向こうから聞こえるはずの水の音がしない。
村じゅうが静かだった。水の村で水の音がしないのは、人が息をしていないのと同じだと、シズクは思った。
「シズク」
母のミオが、空の水瓶を抱えて立っていた。顔色が悪い。
「長のところへ行ってくる。あんたは家にいなさい。井戸の水は、朝のぶんだけだからね」
「おれも行く」
「だめ。大人の話」
ミオはそう言って出ていった。シズクは言いつけを守らなかった。母の背中が角を曲がるのを待って、裸足のまま追いかけた。
村の中央にある水路の集会所には、もう大勢の忍者が集まっていた。大人たちの腰のあたりから、シズクは首を伸ばして中を覗いた。いちばん奥の高い席に、御影ソウマが座っている。十八歳。村でいちばん強い、水の長だ。
「原因は、山腹の導水路です」
調べに行ったという忍者が、汗を拭いながら言った。
「古い横穴の途中で、天井が崩れていました。土と石が、ぎっしり詰まっています。水はほとんど通りません」
「どかせないのか」
「それが」
忍者は言いにくそうに、ソウマを見た。
「あの水路は、先々代の頃に掘ったものです。壁が薄い。強い水流を一気に当てれば、詰まりは抜けても、壁ごと裂けるでしょう。裂ければ、水は山の中へ逃げて、二度と戻りません」
集会所がざわめいた。ソウマは黙って、指で膝を叩いていた。しばらくして、低い声で言った。
「手で掘る。人を出せ。ただし、穴が狭い。大人は肩が入らない場所がある」
「子供なら入れます」
誰かが言い、すぐに誰かが「危ない」と返した。崩れた天井の下に、子供を入れる。シズクにも、それがどういうことかはわかった。
「おれが行く」
声を上げてから、シズクは自分の口を押さえた。大人たちが一斉に振り向いた。ミオの顔が、見たこともないほど怖くなった。
「シズク。帰りなさいと言ったでしょう」
「でも、おれ、小さいから入れる」
「水も出せない子が、何を」
誰かが小声で言った。たぶん悪気はなかった。悪気がないぶん、胸の奥にまっすぐ刺さった。
水は、出せる。ほんの一滴なら。出せないのは、そこから先だ。
「待ってください」
集会所の入口から、もうひとり、子供が入ってきた。御影レイ。シズクと同じ十歳で、兄のソウマと同じ、どこか涼しい目をしている。村でいちばんの天才だと、みんなが言う。
「ぼくも行きます。ぼくの術なら、土を崩さずに水を回せる」
「レイ。おまえの水は、強すぎる」
ソウマが、はっきり言った。レイの肩がかすかに揺れた。
「穴の中で、加減を誤れば、壁が裂ける。おまえはまだ、細かい力の調整ができない」
レイは唇を噛んで、うつむいた。シズクは、親友の横顔を見た。レイが、できないと言われるところを、初めて見た。
結局、二人は、ついて行くことを許された。ただし条件がついた。二人とも腰に縄をつけ、外から大人がいつでも引き戻せるようにすること。そして、無理だと思ったらすぐに戻ること。
入口の前で、ミオはシズクの腰の縄を、自分の手で結び直した。三度、固く引いて確かめる。結び目をなぞる指が、かすかに冷たかった。
「引いたら、すぐに戻るのよ。いいわね」
「うん」
「約束」
「約束する」
母はそれ以上、何も言わなかった。言えば止めてしまうと、わかっていたのだろう。

暗い入口からは、冷たい土の匂いが流れ出していた。二人は、縄を引きずりながら中へ入った。
横穴は、這わなければ進めなかった。天井が低く、壁は湿った粘土のようなものでできている。灯りは、レイが指先に灯す小さな忍火の玉だけだ。シズクの腰から伸びた縄が、後ろの闇へ細く続いている。背中には、竹筒を一本さしていた。
「重くない?」
「へいき。母さんが入れてくれた」
竹筒の中身は、井戸の底に残っていた水だった。大事な水を、母は黙って詰めてくれた。そのことを、シズクは考えないようにした。考えると、手が震える。
奥へ進むと、突き当たりに、土と石の壁があった。
天井から落ちてきたものが、横穴いっぱいに詰まっている。大人の拳ほどの石、粘土の塊、細かい砂利。それが固く押し固められて、見上げるほどの壁になっていた。隙間から、ちょろ、ちょろ、と細い水が一本だけ、通ってくる。シズクの手首よりも、細い。
頭の上で、ぱらり、と土が落ちた。二人は息を止めた。天井の隙間から、細かい砂が糸のように流れて、やがて止まった。心臓の音だけが、耳の奥でうるさく鳴っている。
「……戻る?」
「ううん」
シズクは、首を振った。怖いのに、不思議と足は止まらなかった。
「これが全部、詰まりか」
レイが、土に掌を当てた。目を閉じる。しばらくして、首を振った。
「だめだ。ぼくが水を流し込むと、一番弱いところから抜ける。でも、一番弱いところが、壁の横だ。壁が割れる」
「じゃあ、どうする」
「わからない」
レイの声は、小さかった。天才と呼ばれている人間の声ではなかった。
シズクは、土の壁をじっと見た。細い水が一本、ちょろちょろと流れ出ている。その流れを、目で追った。
水は、真ん中を通っていなかった。壁の左下の、粘土の塊の脇から出ている。水が通る場所は、土が少し湿って、色が濃い。
「レイ。ここ」
「え?」
「ここだけ、色が違う。水が通ってる。ここの土は、ほかより柔らかいんじゃないか」
シズクは指を伸ばして、濃い色の土を押した。ほんの少し、指が沈んだ。ほかの場所は、石のように固い。
「水は、ちょっとだけ通ってる。なら、その道を、ちょっとずつ広げたらいい」
「ちょっとずつって。どうやって」
「おれの水で」
言ってから、笑いそうになった。この世で自分にしかできない、いちばんささやかな仕事だった。
シズクは濃い色の土の前に座り込んで、両手を組んだ。指を曲げて、腹の奥にある忍力を探す。いつもの稽古と同じだ。何度も何度も、ひとりで繰り返してきた。
掌の真ん中に、透明な粒がひとつ、ふるえて現れた。
シズクはそれを、濃い色の土の上に、そっと落とした。
土が、水を吸った。色が、ほんの少しだけ広がる。
もう一滴。また一滴。
「……一滴ずつ、やるの?」
「うん。土が乾いてると、水が弾かれるから。ちょっとずつ、中まで染みさせる。急ぐと、そこだけ泥になって崩れる」
稽古場で、嫌というほど知っていた。水は、たくさんあればいいというものじゃない。木桶に落ちた一滴が、木目をどう伝うか。石の窪みに溜まった雫が、どこから零れるか。毎朝、ひとりで眺めてきた。
誰にも褒められない観察だった。けれど、土の中を水がどう歩くかだけは、シズクは誰よりも知っていた。
一滴落とすたびに、腹の底が、薄く削られる。
一時間ほど、そうしていた。
指先が冷たくなってきた。額から汗が落ちて、土に混ざる。それでも、濃い色の染みは、掌ひとつぶんくらいにしか広がっていない。
「シズク、少し休もう」
「まだ」
「顔が白いよ」
「まだ、できる」
そう言ったとき、掌の水が、にじんで消えた。忍力が出ない。両手が、細かく震えた。
「ほら」
レイが、シズクの肩をつかんだ。そのまま、後ろへ引き寄せられる。背中が、レイの胸にぶつかった。
「少し休むんだ。倒れたら、怒られるだけじゃすまない。本当に、戻れなくなる」
「……ごめん」
「謝らなくていい」
レイは、竹筒を取って、シズクの口に当てた。母が詰めてくれた水が、喉を落ちていく。ぬるくて、少し土の味がした。それでも、いままで飲んだ水のなかで、いちばんおいしかった。
しばらく、二人は黙っていた。
細い水の音だけが、ちょろちょろと穴の奥から聞こえている。
「ぼくは、嫌いだったんだ」
急に、レイが言った。
「何を」
「シズクが、毎朝ひとりで稽古するところ。たった一滴の水を、あんなに長く見てるのが。ぼくは、大きな水を一気に出せるから、ちっとも意味がわからなかった」
「うん。変だって、みんな言う」
「でも、いまわかった。ぼくは、水を出すことしかしてなかった。出したあとの水が、どこへ行くかなんて、考えたことがなかった」
レイは、小さな忍火を見つめて、続けた。
「手伝わせて。ぼくは、一滴ずつは出せない。でも、シズクが落とした一滴を、土の中で止めておくことはできる。流れないように、水の通り道をぼくが押さえる。そうすれば、シズクは、出すだけでいい」
シズクは、目を丸くした。
「それ、できるの」
「わからない。やってみる」
二人は、並んで土の前に座った。
シズクが、掌に一滴の水を作る。レイが、その水の輪郭に、自分の忍力をそっと沿わせる。大きな力を、針の先ほどまで絞って。息を止めて、額に汗を浮かべて。
一滴が、落ちた。
土の中で、水が止まった。広がりすぎず、流れすぎず、濃い色の染みが、ゆっくりと奥へ伸びていく。
「できた」
「まだ。次」
「うん」
また一滴。また一滴。
レイは、何度も失敗した。力が強すぎて、水が弾けて飛んだ。そのたびに、小さく舌打ちをして、やり直した。シズクは笑いそうになった。天才が、何度も、何度もやり直している。
それを、数えた。百を超えたところで、数えるのをやめた。
土の色が、変わってきた。
濃い染みは、手のひらから、両手を広げたほどの幅になった。シズクが指で押すと、そこだけが、粘土のようにやわらかく沈んだ。
「いける」
シズクは、爪の先で、湿った土をそっとほじった。ぽろ、と小さな塊が崩れて、落ちた。その向こうに、暗い空洞が見えた。
細い水の音が、少しだけ、太くなった。
「レイ、あとは、石だ。ここの石をどかせば、水が通る」
「石は、重いよ。ぼくたち二人じゃ」
「ううん。ここだけ、小さい」
シズクが指さしたのは、柔らかくなった土の中で、斜めに噛み合っている、拳ほどの石だった。ほかの石は、その石に寄りかかって、全体を支えている。
「あの石が、鍵だ。抜けたら、上の石も、ゆるむ。でも、ゆるむだけで、一気には崩れない。水が通る道だけが、できる」
「どうしてわかる」
「毎朝、石に水を落としてるから」
レイは、ふっと笑った。
「それは、天才にはわからないや」
レイが自分の腰の縄をほどいて、石に結びつけた。二人は穴の入口の側まで下がり、その縄を、ぐいと引いた。それを合図に、外で待っていた大人たちが、シズクの縄を通して二人ごと引き寄せ、同時に石の縄にも手をかけて、力を合わせて引いた。
石が、ごろ、と動いた。
その瞬間、壁の奥から、ごぼ、と低い音がした。
シズクとレイは、反射的に身を寄せ合った。崩れる。そう思った。けれど、土の壁は、崩れなかった。石の抜けた隙間から、茶色く濁った水が、最初は細く、やがて、手首ほどの太さになって、勢いよく吹き出した。
水は、足もとを濡らし、横穴の中を走って、外へ流れていく。
「通った」
「通ったね」
二人は、顔を見合わせた。互いの顔は、泥と汗でぐちゃぐちゃだった。それがおかしくて、笑った。笑いながら、泣いていた。
シズクは、自分の手を見た。震えが止まらない。もう、一滴も出せなかった。

穴の外へ這い出すと、夕方の光がまぶしかった。
山腹の岩の陰に、村人たちが集まっている。ミオが、いちばん前にいた。シズクの泥だらけの姿を見て、母は何も言わなかった。ただ、ぎゅっと両腕で抱きしめた。
「ばか」
母の声は、震えていた。
「ばか。ほんとうに、ばか」
「ごめん」
「いいの。いいのよ」
少し離れたところで、ソウマが、レイを見ていた。レイは、兄の前に立って、胸を張った。
「兄さん。加減が、少しできるようになりました」
ソウマは、しばらく黙っていた。それから、わずかに口もとをゆるめて、レイの頭に手を置いた。
「そうか。シズクのおかげだな」
「はい」
ソウマの目が、シズクに向いた。村でいちばん強い人の目だった。シズクは、背筋を伸ばした。
「水瀬シズク」
「はい」
「おまえの水は、小さい。だが、今日、この村の水を取り戻したのは、おまえの水だ。忘れるな」
胸の奥に、何かが、静かに落ちた。
それは、一滴の水に似ていた。

夜になって、村の水路に、音が戻ってきた。
さらさら、さらさら。屋根の向こうから、水がまた歌い始める。シズクは、家の縁側に座って、その音を聞いていた。体じゅうが重くて、指一本動かすのも億劫だった。
隣に、ミオが座った。
「ほら」
母が差し出したのは、冷たい水を満たした椀だった。井戸の水ではない。水路から汲んできたばかりの、山の水だ。
シズクは、両手で椀を受け取った。口をつけると、冷たさが喉の奥まで通っていった。
「おいしい」
「ええ」
「母さん」
「なあに」
「おれの水、すごく小さいけど」
「うん」
「でも、また、いつか、役に立つかな」
ミオは、しばらく夜空を見上げていた。それから、シズクの頭を撫でた。
「もう、立ったじゃない」
シズクは、椀の中の水を見つめた。月の光が、水面に、小さな丸を作っている。
遠くで、レイの笑い声がした。兄に何か言われて、慌てて言い返している。その声に水路の音が重なって、夏の夜は、いつもの水の村に戻っていった。
明日の朝も、きっと稽古場へ行くだろう。椀を並べて、たった一滴を睨んで、うまくいかなくて、また最初からやるだろう。
それでいい、とシズクは思った。
椀の底に、掌からひとしずくを落としてみた。
ぽつ。
波紋が、ゆっくりと、縁まで広がっていった。それは、とても小さな波だった。けれど、椀の水の端まで、確かに届いた。

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