残業続きの夜、駅裏の路地で、その定食屋を見つけた。
〈ご飯大盛り無料 汁物おかわり自由 千円〉
安すぎる、と思った。それでも暖簾をくぐったのは、味噌の匂いが疲れた体に染みたからだ。
カウンターの奥で、六十代くらいの店主が鍋をかき混ぜていた。
「汁は、好きなだけどうぞ」
一杯目は、ただの豚汁だった。
二杯目で、知らない夕焼けの匂いがした。
舌の上に、よその家の台所が浮かんだ。誰かが、背中を向けて包丁を使っている。
三杯目で、涙が出た。
理由は分からなかった。ただ、懐かしかった。
それから毎晩通った。
常連たちは、皆おだやかな顔をしていた。誰も話さず、静かに汁をすすっていた。
一週間後、会社で同僚に聞かれた。
「遥さん、先週の企画書、どうでした?」
思い出せなかった。
先週の私が、ごっそり抜けていた。
それでも、その夜も店へ行った。一杯飲むと、頭が軽くなる。重たいものを置いてこられた気がした。
店主が、小さく笑った。
「うちの汁はね、お客さんの思い出で煮てるんです」
手は止まらなかった。おたまを持ったまま、私はうなずいた。
「千円は気持ちだけ。本当のお代は、おかわりの数だけ、いただいてます」
そのとき、鍋の底から、懐かしい匂いが立ちのぼった。
母の味噌汁だった。
実家の、少し薄くて、葱の多い味。
一口飲んで、お椀を持つ手が止まった。
母の顔が、思い出せない。
声も、笑い方も、台所に立つ背中も。
慌ててスマホを取り出した。
連絡先に〈お母さん〉とあった。
誰のことか、分からなかった。
店主が、空のお椀を静かに差し出した。
「汁は、好きなだけどうぞ」
