蕎麦屋「むらた」は、先月から何事もなかったように開いている。
店主の村田が橋の下で知り合いの女の人に手を上げた、という噂は、示談が済んだ、の一言で町から消えた。
私は常連のまま、毎週木曜に通っている。
「今日も天ぷらでいいですか」
村田は変わらず穏やかに笑う。
帰りぎわ、裏口の傘立てが目に入った。
黒い傘が七本、きれいに揃っている。
先週は六本だった。その前は五本。
「あの傘、お客さんの忘れ物ですか」
村田の手が止まった。
「ええ。誰も取りに来ませんけど」
雨の降らない夏が続いている。
忘れる人などいるはずがない。
店を出ると、背後で引き戸の鍵が二度、回る音がした。
翌週の木曜、傘立てに新しい一本が濡れて立っていた。
外は快晴だった。
柄には、小さな手の形に、湿りが残っている。
