「食べておけて、よかったって」
シズクが伝えると、ミオは戸口の向こうへ目をやった。
もう、そこには誰もいない。
レイがシズクの隣で靴を揃えた。
「ソウマさん、出たよ。ちゃんと見送った」
「そう」
母は少しだけ口を結び、それから二人を家へ入れた。
「伝えてくれて、ありがとう」
もっと食べていけばよかったのに、とは言わなかった。
シズクは、考えていた返事の行き場がなくなって、食卓の端を指でこすった。
木の上に、乾いた水の輪が残っている。
昼飯の椀を置いた跡だった。
レイは座らなかった。
入口に立ったまま、外を通る足音へ顔を向けている。
「僕、手伝えることがないか聞いてくる」
「どこで?」
「さっき、荷物を運んでた所。村の中だよ」
シズクも立ちかけた。
レイがこちらを見る。
「できることがあったら、呼びに来る」
「俺も行く」
「二人で聞きに行って、二人で戻るかもしれないよ」
そう言われると、たしかに邪魔かもしれなかった。
シズクは母を見た。母はレイに、無理な仕事は引き受けないでね、と言っている。
「俺もやるって、言っといて」
「うん」
レイは外へ出た。
シズクはその足音を聞きながら、もう一度椅子へ腰を下ろした。
朝には、一滴しか出せなかった。
昼には、任務へは出せないと言われた。
できることを聞きに行く役までレイに任せたら、今日は椅子に座って終わってしまう。
母が道具を片づける音に、顔を上げた。
「さっきの袋、終わったんだよな」
「うん」
「ほかにある?」
ミオは仕事の布へ視線を落とした。
細い道具が何本か並んでいる。その中の一つを取り、柄を指で回した。
先の曲がった、小さな鉄の鉤だった。
「これ、巻き直そうと思ってたんだけど」
木の柄に巻いた布が、端からめくれていた。
ミオが握ると、布だけが少しずれる。
固くなった荷紐の結び目を起こす時に使う道具だ。シズクも、母が使うところを何度も見ていた。
「俺、やる」
「最後は確かめるよ」
「わかってる」
シズクは母から鉤を受け取った。
自分の前の布へ置き、ほどけた端を探す。
全部ほどけば早いと思ったが、柄の奥のほうは固く巻かれたままだった。
「ここも取る?」
「緩んでる所だけ。残せる所は残して」
指で押して確かめる。
動く所と、動かない所がある。
シズクは境目まで古い布をほどき、母から渡された細い布で巻き直した。
一周目は斜めになった。ほどいて、やり直す。
二周目を強く引きすぎると、下に巻いた布が寄った。
「……巻くだけなのに」
「握った時にずれないようにするんだよ」
母は横から手を出さず、見ていた。
シズクは指の腹で皺を伸ばした。
急いで引くと、さっき巻いた分まで動く。柄を持つ手と、布を引く手を少しずつ入れ替えた。
入口に影が差したのは、端を押し込もうとした時だった。
「シズク。仕事、あったよ」
レイが両手を膝について息をついていた。
シズクは危うく鉤を持ったまま立ち上がりそうになった。
「どんなの」
「籠を届ける。ここの修繕が終わったやつを二つ」
レイは母へ向き直り、頼んだ人の名と届け先を伝えた。
真柴セキ。
シズクには、初めて聞く名前だった。
ミオは壁際の籠を見た。
「二つとも、もうできてる。受け取る人はそこにいるのね」
「はい。入口で待ってるって」
「空のまま、二つ?」
「はい。それで合ってます」
シズクは籠を見た。
昨日、自分が蓋を浮かせてしまったものがあった。母と直した縁は、もう曲がっていない。その中に、一回り小さな籠が重ねられている。
村へ返す預かり物だったのだと、今、知った。
「俺、これ持つ」
「先に、その手を終わらせて」
母に言われ、鉤の柄へ目を戻した。
巻き終わりが浮いていた。
ここを残して持っていったら、使うたびにめくれる。
シズクは端を折り込み、爪の先で隙間へ押した。
ミオが受け取り、握り直した。
布を捻り、鉤の先を確かめる。
「うん。ずれない」
返ってきた柄には、古い布の暗い部分が指一本ぶん残っていた。
新しい布との境目は、少し斜めだ。
揃え直したくなったが、母はもう籠のほうへ向いていた。
「紐で留めておくから、向こうでほどいてね。この鉤も貸すよ」
重ねた籠をミオが紐でまとめた。
シズクは鉤の先を小さな布で包み、握っても出ないことを確かめた。
「置いてこないでね。うちで使う物だから」
「わかってる」
「二人とも、運ぶだけ。ほかのことを頼まれたら、できるか考えて」
レイが頷いた。
シズクも頷き、籠の片側を持ち上げた。
空でも、二つ重なると腕を大きく開かないと持てない。
レイが反対側へ手を添えた。
「せーの」
同時に持ったつもりなのに、籠はシズクのほうへ傾いた。
「お前、早い」
「シズクが遅いんだよ」
「じゃあ俺が言う」
一度下ろして、持ち直した。
今度は、ぶつけずに戸口を出られた。
通りの端を二人で進んだ。
自分一人なら通れる隙間でも、籠は通れない。追い越していく人を避けようと横へずれると、レイの足まで引っ張ってしまう。
「止まるなら、言って」
「今、言うところだった」
シズクは前を見た。
道に張り出した荷物がある。そこを避けると、水路へ寄りすぎる。
「次、止まる」
「うん」
足を止め、人が通り終わるのを待った。
レイが先を見てから頷く。
二人で持ち上げ直した時、籠の底が石に擦れずに済んだ。
それだけで、少しうまくなった気がした。
「これ、任務?」
シズクが聞くと、レイは籠越しにこちらを見た。
「お届け物」
「それはわかってる」
「任務って言ったら、ミオさんに怒られそう」
たしかに、運ぶだけと言われた。
シズクは籠の縁を握り直した。
手の中で、直したところの編み目が当たった。自分が壊しかけた場所だった。
「でも、頼まれたやつだから」
「うん。待ってる人がいる」
それなら、ちゃんと届けなくてはいけない。
シズクは、次の角では曲がる前に声をかけた。
曲がった先で、レイが籠を持つ手を替えた。
シズクも持ち替えようとして、内側の籠が少し浮くのを見た。
「そっち、下げて」
レイが腕を緩めると、二つの縁が重なり直した。
紐があるから落ちることはなかった。でも、このまま揺らしていたら、蓋が擦れていたかもしれない。
「よく見えたね」
「俺のほうから、隙間が見えた」
言ってから、もう少し偉そうに言えばよかったと思った。
けれどレイは、そっか、と素直に頷いた。
シズクは足元を見た。レイのほうからは、さっきの隙間は見えなかったらしい。
腕は少し疲れていた。
それを言うのは嫌だったが、落とすほうがもっと嫌だった。
「次の広いとこで、一回下ろしていい?」
「僕もちょうど言おうと思ってた」
道の端へ寄り、二人で息をついた。
レイも指を開いたり閉じたりしていた。
急いで置いたら、底が傷つく。下ろす時まで気をつけるのだと、今度は言われる前に思い出せた。
荷を受け渡している建物の前には、台が置いてあった。
畳んだ布や束ねた紐が寄せられ、その向こうに人が立っている。
レイが先に声をかけた。
「持ってきました」
台の向こうから手が上がった。
「そこへ置いて。ゆっくりでいい」
二人は籠を下ろした。
指を離すと、掌に縁の跡がついていた。
シズクはこっそり手を振った。
「水瀬さんのところの子だね」
「はい。水瀬シズクです」
「真柴セキ。御影に運び手を探してもらった。助かった」
シズクは頭を下げた。
レイに頼んだ人は、この人だった。
怒っているふうでも、急かしているふうでもない。セキは籠の底を確かめ、二つあることを数えた。
「紐は、ほどける?」
「できます」
すぐに答えた。
結び目へ指を入れようとして、止まった。
運ぶ間に籠の縁へ食い込み、紐がぴんと張っている。
引っ張ればいい、と昨日なら思ったかもしれない。
シズクは持ってきた鉤の布を外した。
レイへ籠を少し押さえてもらい、結び目の隙間を探す。
先を差し入れ、指で柄を回しかけたところで、紐の細い毛が一本引っかかった。
「待って」
レイの手が止まった。
シズクは鉤を抜き、先を入れる向きを変えた。
切りたいわけではない。固く寄ったところを、少し持ち上げればいい。
母が縫い目を確かめる時のように、近くへ顔を寄せた。
隙間ができた。
鉤で引っ張り続けず、今度は指の腹を入れる。
紐がするりと動き、籠の蓋が軽く浮いた。
「取れた」
声が大きくなった。
セキがこちらを見たので、シズクは紐をまとめながら口を閉じた。
「切らずに済んだね。それも使うから、ここへ」
言われた場所へ、ほどいた紐を置いた。
セキは空の籠の内側まで確かめ、二つを受け取った。
シズクの腕から、荷物の重さがなくなった。
「その柄、直したの?」
レイが鉤を見ていた。
「さっきな」
「ここだけ色が違う」
「そこは、まだ使えるんだって」
シズクは古い布の部分を指で示した。
レイが頷く。
柄は少し不格好でも、強く握った時にずれなかった。
台の上で紙をめくる音がした。
セキが帳面を広げていた。籠二つ、と書き、その隣へ受け取った時分を記している。
「運んだ人の名前を、ここに」
筆が置かれた。
シズクは自分の顔を指した。
「俺も?」
「二人で運んだんでしょう」
「はい」
鉤を包み直して台の端へ置き、筆を取った。
墨をつけすぎたかもしれない。
紙へ下ろす直前で止めると、レイが隣から覗き込んだ。
「書ける?」
「自分の名前ぐらい、書ける」
最初の水の字だけ、大きくなった。
残りを小さくすれば収まると思って、瀬の字が詰まった。
そのあとにシズクと書く頃には、最初に取った場所を少しはみ出していた。
セキが紙を覗いた。
「読める。大丈夫」
シズクは息を吐き、筆を台へ返した。
レイがそれを取り、自分の名前を書いた。
最初から最後まで、同じくらいの大きさだった。
「お前、字まで」
「何?」
「何でもねえ」
シズクは自分の名前をもう一度見た。
籠二つ。
その横に、二人の名前がある。
運んだ物を間違えたわけでも、数が足りないわけでもない。
字が大きくたって、仕事は済んだ。
セキが筆を受け取り、帳面を台の奥へ寄せた。
「奥へは入らなくていい。ここまでで受け取ったから」
シズクは敷居から足を引いた。
中を見たかったわけではないが、渡し終えたあとに立つ場所がわからなかったのだ。
レイも台の手前にいた。
「母さんに、届いたって言います」
「頼む。二つとも受け取ったと伝えて」
セキは別の荷へ向き直った。
太い紐で括られた束が、台の脇に置かれている。
「御影、もう少し手が空いているなら、この結び目を頼める?」
「はい」
レイが頷き、シズクへ顔を向けた。
「その鉤、借りてもいい?」
「これ?」
「指が入らなさそうだから」
シズクは包んだ鉤を取った。
母には、置いてこないよう言われている。
レイは伸ばしかけた手を止めた。
「終わったら、僕がミオさんに返すよ」
「じゃあ俺も待つ」
「届けたって、先に教えてあげて。すぐ戻るから」
母は、一人で仕事をしている。
籠が戻っていないとわかれば、それだけで片づく話もあるのかもしれない。
シズクは少し考え、鉤をレイの掌へ載せた。
「母さんのだからな」
「うん。借りてるって伝えて」
「巻いたとこ、剥がすなよ」
「そこは剥がさないよ」
レイが笑った。
シズクも口元を緩め、セキへ頭を下げた。
二人を台のところに残して、来た道へ戻った。
一人になると、足が速くなった。
籠を持っていない腕が、いつもより大きく振れる。
角を曲がる前に止まる癖だけが残って、シズクは自分で少し笑った。
家の前へ来ると、母が顔を上げた。
「届けた?」
「二つとも。真柴さんが受け取った」
シズクは靴を脱いだ。
母の視線が、空いた手へ落ちる。
「鉤は?」
「レイが借りてる。向こうで紐ほどくのに使うって。終わったら、自分で返しに来る」
言い忘れずに済んだ。
ミオは頷き、仕事の布に空いた細い隙間を、そのままにした。
「じゃあ、あれは返却待ちね」
「うん」
ソウマを見送ってから、一時間ほどが過ぎていた。
まだ明るい戸口を、シズクは振り返った。
レイの姿は見えない。
「名前も書いた」
「何に?」
「受け取った物の帳面。俺とレイの名前」
ミオは手を止め、こちらを見た。
「そう。ちゃんと届けられたね」
シズクは頷いた。
字がはみ出したことは言わなかった。
代わりに、鉤の柄がずれなかったことを話した。紐を切らずにほどけたことも。
母は、そう、と聞き、次の仕事を手元へ寄せた。
シズクはその隣に座った。
レイが戻ったら、自分の巻いたところをもう一度確かめよう。
それから、明日の稽古の話をする。
台の上の帳面を思い出した。
レイの整った字の隣に、少し大きすぎる自分の字が並んでいた。
今日、ちゃんと仕事をした名前だった。
