第6話

名前を書く仕事

ぼる

「食べておけて、よかったって」

シズクが伝えると、ミオは戸口の向こうへ目をやった。
もう、そこには誰もいない。
レイがシズクの隣で靴を揃えた。

「ソウマさん、出たよ。ちゃんと見送った」
「そう」

母は少しだけ口を結び、それから二人を家へ入れた。

「伝えてくれて、ありがとう」

もっと食べていけばよかったのに、とは言わなかった。
シズクは、考えていた返事の行き場がなくなって、食卓の端を指でこすった。
木の上に、乾いた水の輪が残っている。
昼飯の椀を置いた跡だった。

レイは座らなかった。
入口に立ったまま、外を通る足音へ顔を向けている。

「僕、手伝えることがないか聞いてくる」
「どこで?」
「さっき、荷物を運んでた所。村の中だよ」

シズクも立ちかけた。
レイがこちらを見る。

「できることがあったら、呼びに来る」
「俺も行く」
「二人で聞きに行って、二人で戻るかもしれないよ」

そう言われると、たしかに邪魔かもしれなかった。
シズクは母を見た。母はレイに、無理な仕事は引き受けないでね、と言っている。

「俺もやるって、言っといて」
「うん」

レイは外へ出た。
シズクはその足音を聞きながら、もう一度椅子へ腰を下ろした。

朝には、一滴しか出せなかった。
昼には、任務へは出せないと言われた。
できることを聞きに行く役までレイに任せたら、今日は椅子に座って終わってしまう。

母が道具を片づける音に、顔を上げた。

「さっきの袋、終わったんだよな」
「うん」
「ほかにある?」

ミオは仕事の布へ視線を落とした。
細い道具が何本か並んでいる。その中の一つを取り、柄を指で回した。
先の曲がった、小さな鉄の鉤だった。

「これ、巻き直そうと思ってたんだけど」

木の柄に巻いた布が、端からめくれていた。
ミオが握ると、布だけが少しずれる。
固くなった荷紐の結び目を起こす時に使う道具だ。シズクも、母が使うところを何度も見ていた。

「俺、やる」
「最後は確かめるよ」
「わかってる」

シズクは母から鉤を受け取った。
自分の前の布へ置き、ほどけた端を探す。
全部ほどけば早いと思ったが、柄の奥のほうは固く巻かれたままだった。

「ここも取る?」
「緩んでる所だけ。残せる所は残して」

指で押して確かめる。
動く所と、動かない所がある。
シズクは境目まで古い布をほどき、母から渡された細い布で巻き直した。
一周目は斜めになった。ほどいて、やり直す。
二周目を強く引きすぎると、下に巻いた布が寄った。

「……巻くだけなのに」
「握った時にずれないようにするんだよ」

母は横から手を出さず、見ていた。
シズクは指の腹で皺を伸ばした。
急いで引くと、さっき巻いた分まで動く。柄を持つ手と、布を引く手を少しずつ入れ替えた。

入口に影が差したのは、端を押し込もうとした時だった。

「シズク。仕事、あったよ」

レイが両手を膝について息をついていた。
シズクは危うく鉤を持ったまま立ち上がりそうになった。

「どんなの」
「籠を届ける。ここの修繕が終わったやつを二つ」

レイは母へ向き直り、頼んだ人の名と届け先を伝えた。
真柴セキ。
シズクには、初めて聞く名前だった。
ミオは壁際の籠を見た。

「二つとも、もうできてる。受け取る人はそこにいるのね」
「はい。入口で待ってるって」
「空のまま、二つ?」
「はい。それで合ってます」

シズクは籠を見た。
昨日、自分が蓋を浮かせてしまったものがあった。母と直した縁は、もう曲がっていない。その中に、一回り小さな籠が重ねられている。
村へ返す預かり物だったのだと、今、知った。

「俺、これ持つ」
「先に、その手を終わらせて」

母に言われ、鉤の柄へ目を戻した。
巻き終わりが浮いていた。
ここを残して持っていったら、使うたびにめくれる。
シズクは端を折り込み、爪の先で隙間へ押した。

ミオが受け取り、握り直した。
布を捻り、鉤の先を確かめる。

「うん。ずれない」

返ってきた柄には、古い布の暗い部分が指一本ぶん残っていた。
新しい布との境目は、少し斜めだ。
揃え直したくなったが、母はもう籠のほうへ向いていた。

「紐で留めておくから、向こうでほどいてね。この鉤も貸すよ」

重ねた籠をミオが紐でまとめた。
シズクは鉤の先を小さな布で包み、握っても出ないことを確かめた。

「置いてこないでね。うちで使う物だから」
「わかってる」
「二人とも、運ぶだけ。ほかのことを頼まれたら、できるか考えて」

レイが頷いた。
シズクも頷き、籠の片側を持ち上げた。
空でも、二つ重なると腕を大きく開かないと持てない。
レイが反対側へ手を添えた。

「せーの」

同時に持ったつもりなのに、籠はシズクのほうへ傾いた。

「お前、早い」
「シズクが遅いんだよ」
「じゃあ俺が言う」

一度下ろして、持ち直した。
今度は、ぶつけずに戸口を出られた。

通りの端を二人で進んだ。
自分一人なら通れる隙間でも、籠は通れない。追い越していく人を避けようと横へずれると、レイの足まで引っ張ってしまう。

「止まるなら、言って」
「今、言うところだった」

シズクは前を見た。
道に張り出した荷物がある。そこを避けると、水路へ寄りすぎる。

「次、止まる」
「うん」

足を止め、人が通り終わるのを待った。
レイが先を見てから頷く。
二人で持ち上げ直した時、籠の底が石に擦れずに済んだ。
それだけで、少しうまくなった気がした。

「これ、任務?」

シズクが聞くと、レイは籠越しにこちらを見た。

「お届け物」
「それはわかってる」
「任務って言ったら、ミオさんに怒られそう」

たしかに、運ぶだけと言われた。
シズクは籠の縁を握り直した。
手の中で、直したところの編み目が当たった。自分が壊しかけた場所だった。

「でも、頼まれたやつだから」
「うん。待ってる人がいる」

それなら、ちゃんと届けなくてはいけない。
シズクは、次の角では曲がる前に声をかけた。

曲がった先で、レイが籠を持つ手を替えた。
シズクも持ち替えようとして、内側の籠が少し浮くのを見た。

「そっち、下げて」

レイが腕を緩めると、二つの縁が重なり直した。
紐があるから落ちることはなかった。でも、このまま揺らしていたら、蓋が擦れていたかもしれない。

「よく見えたね」
「俺のほうから、隙間が見えた」

言ってから、もう少し偉そうに言えばよかったと思った。
けれどレイは、そっか、と素直に頷いた。
シズクは足元を見た。レイのほうからは、さっきの隙間は見えなかったらしい。

腕は少し疲れていた。
それを言うのは嫌だったが、落とすほうがもっと嫌だった。

「次の広いとこで、一回下ろしていい?」
「僕もちょうど言おうと思ってた」

道の端へ寄り、二人で息をついた。
レイも指を開いたり閉じたりしていた。
急いで置いたら、底が傷つく。下ろす時まで気をつけるのだと、今度は言われる前に思い出せた。

荷を受け渡している建物の前には、台が置いてあった。
畳んだ布や束ねた紐が寄せられ、その向こうに人が立っている。
レイが先に声をかけた。

「持ってきました」

台の向こうから手が上がった。

「そこへ置いて。ゆっくりでいい」

二人は籠を下ろした。
指を離すと、掌に縁の跡がついていた。
シズクはこっそり手を振った。

「水瀬さんのところの子だね」
「はい。水瀬シズクです」
「真柴セキ。御影に運び手を探してもらった。助かった」

シズクは頭を下げた。
レイに頼んだ人は、この人だった。
怒っているふうでも、急かしているふうでもない。セキは籠の底を確かめ、二つあることを数えた。

「紐は、ほどける?」
「できます」

すぐに答えた。
結び目へ指を入れようとして、止まった。
運ぶ間に籠の縁へ食い込み、紐がぴんと張っている。
引っ張ればいい、と昨日なら思ったかもしれない。

シズクは持ってきた鉤の布を外した。
レイへ籠を少し押さえてもらい、結び目の隙間を探す。
先を差し入れ、指で柄を回しかけたところで、紐の細い毛が一本引っかかった。

「待って」

レイの手が止まった。
シズクは鉤を抜き、先を入れる向きを変えた。
切りたいわけではない。固く寄ったところを、少し持ち上げればいい。
母が縫い目を確かめる時のように、近くへ顔を寄せた。

隙間ができた。
鉤で引っ張り続けず、今度は指の腹を入れる。
紐がするりと動き、籠の蓋が軽く浮いた。

「取れた」

声が大きくなった。
セキがこちらを見たので、シズクは紐をまとめながら口を閉じた。

「切らずに済んだね。それも使うから、ここへ」

言われた場所へ、ほどいた紐を置いた。
セキは空の籠の内側まで確かめ、二つを受け取った。
シズクの腕から、荷物の重さがなくなった。

「その柄、直したの?」

レイが鉤を見ていた。

「さっきな」
「ここだけ色が違う」
「そこは、まだ使えるんだって」

シズクは古い布の部分を指で示した。
レイが頷く。
柄は少し不格好でも、強く握った時にずれなかった。

台の上で紙をめくる音がした。
セキが帳面を広げていた。籠二つ、と書き、その隣へ受け取った時分を記している。

「運んだ人の名前を、ここに」

筆が置かれた。
シズクは自分の顔を指した。

「俺も?」
「二人で運んだんでしょう」
「はい」

鉤を包み直して台の端へ置き、筆を取った。
墨をつけすぎたかもしれない。
紙へ下ろす直前で止めると、レイが隣から覗き込んだ。

「書ける?」
「自分の名前ぐらい、書ける」

最初の水の字だけ、大きくなった。
残りを小さくすれば収まると思って、瀬の字が詰まった。
そのあとにシズクと書く頃には、最初に取った場所を少しはみ出していた。

セキが紙を覗いた。

「読める。大丈夫」

シズクは息を吐き、筆を台へ返した。
レイがそれを取り、自分の名前を書いた。
最初から最後まで、同じくらいの大きさだった。

「お前、字まで」
「何?」
「何でもねえ」

シズクは自分の名前をもう一度見た。
籠二つ。
その横に、二人の名前がある。
運んだ物を間違えたわけでも、数が足りないわけでもない。
字が大きくたって、仕事は済んだ。

セキが筆を受け取り、帳面を台の奥へ寄せた。

「奥へは入らなくていい。ここまでで受け取ったから」

シズクは敷居から足を引いた。
中を見たかったわけではないが、渡し終えたあとに立つ場所がわからなかったのだ。
レイも台の手前にいた。

「母さんに、届いたって言います」
「頼む。二つとも受け取ったと伝えて」

セキは別の荷へ向き直った。
太い紐で括られた束が、台の脇に置かれている。

「御影、もう少し手が空いているなら、この結び目を頼める?」
「はい」

レイが頷き、シズクへ顔を向けた。

「その鉤、借りてもいい?」
「これ?」
「指が入らなさそうだから」

シズクは包んだ鉤を取った。
母には、置いてこないよう言われている。
レイは伸ばしかけた手を止めた。

「終わったら、僕がミオさんに返すよ」
「じゃあ俺も待つ」
「届けたって、先に教えてあげて。すぐ戻るから」

母は、一人で仕事をしている。
籠が戻っていないとわかれば、それだけで片づく話もあるのかもしれない。
シズクは少し考え、鉤をレイの掌へ載せた。

「母さんのだからな」
「うん。借りてるって伝えて」
「巻いたとこ、剥がすなよ」
「そこは剥がさないよ」

レイが笑った。
シズクも口元を緩め、セキへ頭を下げた。
二人を台のところに残して、来た道へ戻った。

一人になると、足が速くなった。
籠を持っていない腕が、いつもより大きく振れる。
角を曲がる前に止まる癖だけが残って、シズクは自分で少し笑った。

家の前へ来ると、母が顔を上げた。

「届けた?」
「二つとも。真柴さんが受け取った」

シズクは靴を脱いだ。
母の視線が、空いた手へ落ちる。

「鉤は?」
「レイが借りてる。向こうで紐ほどくのに使うって。終わったら、自分で返しに来る」

言い忘れずに済んだ。
ミオは頷き、仕事の布に空いた細い隙間を、そのままにした。

「じゃあ、あれは返却待ちね」
「うん」

ソウマを見送ってから、一時間ほどが過ぎていた。
まだ明るい戸口を、シズクは振り返った。
レイの姿は見えない。

「名前も書いた」
「何に?」
「受け取った物の帳面。俺とレイの名前」

ミオは手を止め、こちらを見た。

「そう。ちゃんと届けられたね」

シズクは頷いた。
字がはみ出したことは言わなかった。
代わりに、鉤の柄がずれなかったことを話した。紐を切らずにほどけたことも。
母は、そう、と聞き、次の仕事を手元へ寄せた。

シズクはその隣に座った。
レイが戻ったら、自分の巻いたところをもう一度確かめよう。
それから、明日の稽古の話をする。

台の上の帳面を思い出した。
レイの整った字の隣に、少し大きすぎる自分の字が並んでいた。
今日、ちゃんと仕事をした名前だった。

この話はいかがでしたか?

評価するにはログイン

まだコメントはありません。

この話を聴く

一滴の忍び ― 落ちこぼれ忍者と六つの禁書 ―

ぼる

この話にはまだ音声がありません。