第5話

帰りを待つ側

ぼる

棚の椀が、かすかに鳴った。

外を誰かが走っていた。足音は家の前を過ぎても緩まず、水路沿いの道へ遠ざかった。シズクは重ねた椀から手を離し、戸口を見た。
レイも、帰りかけたところで立ち止まっていた。

「何だろ」

返事の代わりに、また足音がした。
今度は一人ではなかった。

シズクが外へ顔を出すと、道の向こうで人が脇へ寄っていた。走る大人を通すためだ。荷物を持ったまま立ち止まる人もいる。声は聞こえるのに、何を言っているのかわからない。

「母さん、ちょっと見てくる」
「待って。どこへ」

どこへ行けばわかるのか、考えていなかった。
靴を履いた片足だけを外へ出して、シズクは止まった。
ミオが手を拭きながら隣へ来た。

水路を渡ってくる人影を見て、レイが戸口から進み出た。

「兄さん?」

ソウマだった。
さっき曲がっていった角とは、別の道から来た。歩幅が大きい。昼飯に誘われた時のように、家の中を見ることもしなかった。

「まだここにいたか」
「今、帰るところ。何かあったの」

ソウマは足を止めた。
レイを見て、それからシズクとミオへ目を向ける。

「火の都市村が襲われた。救援を求めてきている」

シズクは、ミオの手が布を握り直すのを見た。
襲われた、という言葉だけが、うまく頭に入らなかった。

火の村。
知っている名前だった。自分たちとは違う忍法を得意とする人たちが住んでいる。けれど、シズクには、そこの道も家も思い浮かばない。
火と聞いて、屋根が燃えているところを想像した。
本当に燃えているのかは、誰も言っていなかった。

「誰が、襲ったんですか」
「今ここで、確かなことは言えない」
「火の長は?」
「村を守っている。私も救援に向かう」

その言葉で、ようやくシズクにも、起きたことの大きさが少しわかった。
ソウマが行く。
さっきまで、うちで芋を食べていた人が。

レイが半歩前に出た。

「僕も行く」
「駄目だ」

返事はすぐだった。
シズクは、レイの横顔を見た。普段なら、一度頷いてから別の聞き方をする。けれど今は、口を結んだまま兄を見ていた。

「兄さんと一緒でも?」
「一緒でもだ」
「僕なら、水も」
「レイ」

低い声に、続きが止まった。
ソウマは弟の肩を押し戻さなかった。手を出さず、顔を見ている。

「今のお前を連れてはいけない」

シズクは、昼飯の時にも聞いた答えだと思った。
あの時は、いつか行く任務の話だった。
今は、支度を終えたら出発する人が目の前にいる。

レイでさえ駄目なら、自分には聞くこともできない。
そう思ったのに、舌の先まで言葉が来た。
荷物なら持てる。
言いかけて、昼飯の前に歩いた道を思い出した。腹が減るから走りたくないと言った道だ。大人たちは、今もそこを走っている。
どのくらい走れば火の村へ着くのか、自分は知らない。

「ソウマさんがいなくても、ここ、大丈夫なんですか」

代わりに出たのは、それだった。
ソウマはシズクを見た。

「残る者もいる。皆を連れて出るわけではない」
「でも、一番強いのは」
「私だ」

迷いのない返事に、シズクは黙った。

「だから、助けを求めている所へ行く」

行かないでほしい。
そう言うつもりだったわけではない。でも、近いことを言った気がした。
シズクは足元へ目を落とした。片方だけ、靴の踵を踏んでいる。
それを直している間に、ミオが口を開いた。

「もう、出られるんですか」
「支度が済み次第」
「お気をつけて」

ソウマは短く頷いた。
それからレイへ向き直った。

「一度、家へ戻れ。俺も支度に戻る」
「……うん」

レイの声は小さかった。
兄が歩き出すと、すぐにその後を追った。シズクの前を過ぎる時、足を緩める。

「あとで来る」
「ここにいる」

それだけ言って、二人は離れた。
ソウマの歩幅に合わせるレイは、ときどき小走りになる。
シズクは、二人の背中が見えなくなるまで、外に立っていた。

道の水たまりを、走る足が踏んだ。
しぶきが敷居の近くまで跳ねた。
さっきまで、食器を洗って濡れた自分の袖だけが気になっていた。袖はまだ乾いていないのに、もうずいぶん前のことのようだった。

「シズク。中へ」

母の声で振り返った。

「戸、閉める?」
「開けておいていいよ。レイが来るんでしょう」

家に入ると、食卓の上に仕事の布が戻っていた。
片づけたばかりの場所へ、ミオが道具を並べている。
シズクは自分の席に座り、空いた隣の席を見た。

「母さん、仕事するの」
「これだけは仕上げておかないと」
「こんな時でも?」

言ってから、嫌な言い方になったと思った。
ミオは怒らず、縫いかけの袋を膝へ広げた。

「預かっている物だからね」

袋の口がほつれていた。
母は針を通し、糸を引いた。途中で一度、外へ顔を向ける。足音が遠ざかると、続きを縫う。
いつもより、糸を引く手が遅かった。

「俺、何かする」
「じゃあ、こっちを押さえて」

シズクは席を移った。
ミオが持った袋の、縫うところから少し離れた端を押さえる。
針が布を抜けるたびに、指にわずかな力がかかった。

外の声が大きくなると、つい手を動かしそうになる。
母はそのたびに針を止めた。
三度目に、シズクは自分から指の位置を直した。

「これ、救援に持ってくの?」
「そういう物じゃないよ」

少し、がっかりした。
今ここで持っている袋が誰かを助ける物なら、自分も何かしていると言える気がした。
母は縫い目を指でなぞった。

「そこ、もう少し緩めて。布が寄ってる」

言われた通りにすると、袋の端が平らになった。
シズクはそのまま押さえた。
誰が使う物でも、曲がって縫えたら困るのはわかった。

最後の糸を始末し、ミオが袋を裏返した。
シズクは口を広げる手伝いをしてから、仕上がった袋を母の作業布へ戻した。
指先に、布の跡が薄くついていた。

「……レイ、行きたかったんだな」

シズクが言うと、母は針を片づけながら顔を上げた。

「そう言ってたね」
「俺と行くのが駄目なんじゃなくて、兄さんとでも駄目だった」

口にすると、自分が何を気にしていたのか、はっきりしてしまった。
火の村が襲われたのに。ソウマがこれから行くのに。
自分がレイの邪魔なのか、まだ気にしていた。

「俺、やな奴かな」

ミオはすぐには答えなかった。
仕事の布を畳み、その上から針の位置を確かめた。

「レイに、何か言った?」
「言ってない」
「じゃあ、会ったら話を聞いてあげたら」

どうしてそんなことを思ったのか、母は尋ねなかった。
シズクは指についた跡をこすり、頷いた。

入口の外が、ふっと暗くなった。
レイが立っていた。

「もう出るって」

シズクは椅子から下りた。
今度は、靴を両方ともきちんと履いた。

「母さん、村の出口まで。レイと見送ってくる」
「道の端を歩いてね。見送ったら戻っておいで」
「うん」

ミオは家に残った。
レイが頭を下げ、シズクはその隣へ出た。

二人で歩く道を、大人たちが追い越していく。
通りの先では、軒先に出してあった物が奥へ引かれていた。店を閉めるのかと思ったが、そうではなかった。荷を運ぶ人が通れるよう、道を空けているのだ。

シズクは、通りを空けた店の中を覗いた。
奥で、小さな子が大人の服を掴んでいた。出てくるつもりなのか、引き止めているのかはわからない。その手だけが、ひどく強く握られているように見えた。

火の村にも、こんな店があるのだろうか。
食べかけの昼飯を置いたまま、逃げなくてはいけなかった人もいるのだろうか。
名前だけだった場所に、急に椀や椅子が増えた。
ソウマに行かないでほしいとは、もう言えない。
けれど、早く行ってほしいとも、レイの隣では言えなかった。

シズクは水路に寄りすぎ、袖をレイに引かれた。

「そっちは落ちるよ」
「わかってる」

少し離れて歩き直す。
レイは袖から手を放した。

聞いてあげたら、と母は言った。
けれど、何から聞けばいいのか、出てきた途端にわからなくなった。
兄さん、大丈夫だよ。
そう言えばいいのかもしれない。
村で一番強いのだから、と続けるのも簡単だった。

「……心配?」

やっと出た言葉に、レイがこちらを見た。

「うん」

返事が短くて、シズクは次に困った。
レイは前を向いたまま、歩く速さを落とさなかった。

「シズクは?」
「俺も。ちょっと」

ちょっと、は要らなかったかもしれない。
言い直す前に、レイが頷いた。

道の先に、出発する人たちが見えた。
背中の荷を直し、足元を確かめ、互いに短く言葉を交わしている。立っている人の間を抜けて前へ出ようとすると、レイがまたシズクの袖に触れた。
今度は二人とも、道の脇で止まった。

ソウマがこちらに気づいた。
ほかの人へ何か伝えてから、二人の前へ来る。

「家には言ってきたか」
「はい。見送ったら戻れって」
「そうしてくれ」

ソウマは、もう一度レイを見た。
レイは顎を上げた。

「何を任せられないのか、聞くつもりだった」
「ああ」
「まだ、ちゃんと聞いてない」

シズクは二人を見比べた。
昼飯の後の約束だ。自分が教官へ聞くと言ったのと、同じ話。

「帰ったら聞く」

レイが言った。
ソウマは弟の顔を見ていたが、やがて頷いた。

「時間を取る」
「今度は、食べながらじゃなくて」
「ああ」

レイの口元が、少しだけ動いた。
笑ったのかもしれないが、シズクには横からしか見えなかった。

自分も何か言わなくてはいけない気がした。
頑張ってください、では足りないように思えた。助けてきてください、と言うのも変だった。そのために行くのだから。
黙っていると、ソウマのほうから視線を向けた。

「シズクも、気をつけて帰れ」
「俺は、すぐそこだし」

返してから、失敗したと思った。
遠くへ行く人に、すぐ近くだと教えてどうする。

「……また、飯、食べに来てください」

ソウマの目が、一度ゆっくり瞬いた。

「母さんも、たぶん」

勝手に母の分まで言いかけて、止めた。
けれどソウマは、小さく頷いた。

「礼を伝えてくれ。今日、食べておけてよかった」

シズクは、はい、と答えた。
その返事だけは、ちゃんと出た。

シズクは両手を背中に回した。
何も持っていない手が、邪魔だった。
大人たちは一つ確かめると次のことをする。自分は、誰かの顔を見てからでないと、立っていていい場所さえ決められない。

レイは手を下ろしていた。指先が稽古着の縫い目に触れている。
兄の袖を引けばいいのに、と思った。
昼飯に誘った時は、あんなに簡単に引いていた。
シズクが袖へ目を向けた時、ソウマが一行のほうを見た。待っている人たちもこちらを見ていた。
もう、引き止められる時間ではないのだ。

ソウマが一行のほうへ向き直った。
足が半歩進んだところで、レイが呼び止める。

「兄さん」

さっき家を出た時と、同じ呼び方だった。
ソウマが振り返る。

「帰ってきたら、教えて。夜遅くても」

ソウマはしばらく弟を見た。

「わかった」

それから、もう一度前を向いた。

出発は、思っていたより静かだった。
長い挨拶も、大きな掛け声もなかった。ソウマが先へ進み、一行が続く。止まっていた人の足が、同じ方へ動き出した。
シズクは一歩だけついていき、止まった。
レイは、その場から動かなかった。

水の村の外へ出た背中が、小さくなっていく。
走り出す足音が重なり、やがて離れた。
見えなくなっても、シズクは道の先を見ていた。
まだ追いつける距離なのか、もう声も届かないのか、わからなかった。

昼飯の片づけが終わってから、一時間ほどしか経っていなかった。

村の中へ振り返ると、残った人たちが歩き始めていた。
開いている店がある。荷物を抱えて家へ戻る人がいる。ソウマがいなくなっても、道は空っぽにはならなかった。
それが少し不思議で、少しほっとした。

「戻ろう」

シズクが言った。
レイはまだ外の道を見ていたが、やがて足を引いた。

「うん」

二人は並んで、村の中を歩き出した。
シズクは何度か振り返りたくなった。そのたびに、隣の靴の先を見た。
レイも、前を向いて歩いていた。

橋の手前で、行きに踏まれた水たまりを避けた。
レイも同じほうへ足を出して、肩がぶつかった。
いつもなら押し返す。今日だけはどちらも、少しずつ横へずれただけだった。
狭い橋を渡りきるまで、二人の袖が触れていた。

母に、ソウマの言葉を伝えなくてはいけない。
今日、食べておけてよかった、と。
そうしたら母は、もっと食べていけばよかったのにと言うかもしれない。
鍋の底には、まだ少し残っていた。

「レイ」
「何?」
「帰ったって聞いたら、俺にも教えろよ」

レイがこちらを見た。

「夜でも?」
「夜でも」

頷いたレイの隣で、シズクは歩き続けた。
さっき見送った道へ背を向けるのは、思っていたより難しかった。

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一滴の忍び ― 落ちこぼれ忍者と六つの禁書 ―

ぼる

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