第4話

四つ目の椀

ぼる

「今日、うちで昼飯食わない?」

言うつもりだった言葉は、印を結んでいる途中に出てきた。
レイの小指が止まる。
シズクは自分の手を見たまま、続きを急いだ。

「母さんが、呼べって」
「今、その話?」
「あとで忘れるかもしれないだろ」
「手順も忘れそうだけど」

レイが笑ったので、シズクは一度、指をほどいた。
朝、母へ紐を返す時にも、ちゃんと誘ってくる、と言ってきたのだ。
昨日預かった短い紐は、よれを戻し終えて、もう母の仕事の布の上にある。

「用事があったら、いいけど」
「ないよ。行きたい」
「……そっか」
「何が出るの?」
「芋」
「芋だけ?」
「汁もある」

鍋の大きさまで話しそうになって、口を閉じた。
レイは、楽しみ、と言って手を上げ直す。
それでようやく、昨日の続きを始められた。

この朝も、いつもの時刻に集まった。
引っかかった小指の位置を確かめ、迷ったら止める。
シズクは三度目に、一滴の水を出した。
大きさは変わらない。
指を揃えられたことと、水が増えることは、やっぱり別らしかった。

一時間で稽古を終える頃には、腹が鳴った。
レイに聞こえたかと思ったが、本人も腹を押さえていた。

「もう行く?」
「まだ早い。母さん、仕事してるから」
「じゃあ、水路のほう回ろうよ」

二人は水場で手を洗い、稽古場を出た。
今日は指に痛みも震えもない。
シズクは手を振り、先に歩き出した。

水路沿いを遠回りして、二人の靴の影が並ぶまで歩いた。
途中で流れてきた葉っぱを追い越し、曲がり角では追い越された。
走ると腹が減る、とシズクが言った。
歩いても減るよ、とレイが答えた。
結局、最後の道だけ小走りになった。

家の近くまで来たところで、レイが足を止めた。

「兄さん」

シズクも止まった。
水路の向こうから、御影ソウマが歩いてくる。
誰かを連れているわけでも、大きな声を出しているわけでもない。
それなのに、シズクの背中は勝手に伸びた。

十五歳で村の最強となり、長になった人。
今は十八歳。
レイの話に出てくる時は、たった三つの年数なのに、目の前にするとずっと遠い。

ソウマは小さな橋を渡り、二人の前で止まった。

「稽古は」
「終わったよ」
「これから戻るところか」
「シズクの家で食べる」

レイの返事は、いつもと同じだった。
シズクは慌てて頭を下げた。
下げすぎて、靴の先が見えた。

「こ、こんにちは」
「ああ。こんにちは」

顔を上げると、ソウマはシズクより先に、その家の入口を見ていた。
鍋の蓋を持った母が、こちらへ顔を出している。

「ちょうどよかった。もうできてるよ」
「ただいま。レイ、来た」
「見えてる」

ミオがソウマへ挨拶をした。
彼も短く頭を下げる。

「弟が世話になります」
「いえ。よろしければ、一緒にどうですか」

シズクは母を見た。
レイも母を見た。
ソウマだけが、来た道へ一度目を戻した。

「長居はできません」
「召し上がる間だけでも。まだお昼は?」
「まだです」

レイが兄の袖を引いた。

「食べていけば」
「お前は先に入れ」
「兄さんも入るなら」

袖を離さないまま、レイが戸口へ向いた。
強く引っ張っているようには見えない。
ソウマは少し間を置いてから、ミオへ向き直った。

「では、少しだけ」

村でいちばん強い人が、昼飯を食べに来る。
シズクは入口の段差につまずいた。
普段は、見なくても越えられるのに。

中に入ると、食卓から籠が全部なくなっていた。
母が空けておいてくれた席へ、レイが迷わず座ろうとする。

「そこじゃなくて、こっち」
「どうして?」
「そっちは、ソウマさん」

シズクが示した席を見て、レイが首を傾げた。

「兄さん、どこでもいいと思うけど」
「入口に近いほうが、帰りやすいだろ」

言ってから、帰ってほしいみたいになったと気づいた。
ソウマを見る。
彼は頷いて、その席に座った。

「助かる」

それだけで、シズクは少し息ができた。

椀は三つ、用意してあった。
シズクは棚から四つ目の椀を取った。ほかより少し小さい。
一度ソウマの前へ置きかけて、やめた。
自分の大きい椀をそちらへ滑らせ、小さいほうを手元へ引く。

母はそれを見ていたが、何も言わなかった。
昨日より大きい鍋を食卓の近くへ運び、順番によそう。

芋が、ちゃんとたくさん入っていた。
汁の底に沈んでいても、匙を入れるたびに出てくる。
三人のつもりで作ったものだから、四人なら少しずつ減る。
でも、鍋の底はまだ見えなかった。

「足りなかったら言ってね。すぐには増えないけど」
「母さん」
「言わないで足りないほうが困るでしょう」

レイが笑った。
ソウマも、ほんの少しだけ目を細めた。
シズクには、それが笑った顔なのか、湯気が目に入ったのか、わからなかった。

四つの椀が、食卓に並んだ。

「いただきます」

レイの声のあとに、ソウマの低い声が重なる。
シズクも慌てて言った。
母が、どうぞ、と返す。

最初のうちは、食べる音ばかりだった。
シズクはいつもより小さく芋をかじった。
レイはいつもより丁寧に食べているように見えたが、二口目にはもう母に話しかけていた。

「おいしいです」
「よかった。シズクは、熱いしか言わないから」
「昨日のは熱かったんだよ」
「今日も熱いよ」

レイが息を吹きかけた。
ソウマは、その間にもう半分ほど食べていた。

「兄さん、そんなに急がなくても」
「急いでない」
「僕、まだ芋一つだよ」
「喋っているからだ」

シズクは口に入れた芋を飲み込む前に笑いそうになった。
レイがこちらを見たので、椀で口元を隠した。

兄弟の会話なのだ。
わかっていたけれど、ソウマの返事を聞くまで、うまく想像できていなかった。
この人にも、喋りながら昼飯を食べる弟がいる。
その弟と、自分はさっきまで葉っぱを追いかけていた。

ミオがソウマの空いた椀を見た。

「もう少し、どうですか」
「ありがとうございます。では」

椀が渡される。
その動きを見て、シズクはつい口を開いた。

「長でも、おかわりするんですね」

レイが吹き出した。
シズクは、自分の言ったことが聞こえなかったことにならないかと思った。
ソウマは空の手を膝へ置き、シズクを見た。

「腹は減る」
「そりゃ、そうですよね」

ミオがおかわりをよそっている。
何でもないやり取りのはずなのに、レイはまだ笑っていた。

「シズク、兄さんを何だと思ってたの」
「別に。何も」
「昼飯いらない人?」
「そこまで言ってねえよ」

ソウマが受け取った椀を持ち直した。
シズクは、その手を見た。
指が何本も多いわけではない。自分と同じ形をしている。
その手で、どんな忍法を使うのだろう。

知りたくなった。
今なら聞けるかもしれないと思って、喉の奥が固くなった。

「……ソウマさん」

顔がこちらを向く。
シズクは椀を置いた。

「俺も、そのうち、任務に出られますか」
「どんな任務だ」

思っていた返事と違った。

「レイと一緒に」
「誰と行くかではなく、何をするかだ」

レイが椀を下ろした。
母も、口を挟まずにいる。

何をする。
シズクは、遠くの道を走る自分を思い浮かべた。
隣にはレイがいて、二人とも今より速い。
誰かに助かったと言われ、仕事の金を持って帰る。
そこまでは、何度も考えた。
その間で何をしているのかは、うまく形にならなかった。

「困ってる人を、助けるとか」
「危ない場所でも?」
「……はい」

ソウマは、すぐには頷かなかった。

「今の二人を、危険な場所へ一緒に出すことは認められない」

二人。
シズクはレイのほうを見かけて、やめた。
自分がいるから、レイまで駄目になる。
そう思うと、食べたものが腹の中で重くなった。

「俺が、一滴しか出せないから」
「それだけではない」
「でも、レイなら」
「弟にも、まだ任せられないことがある」

ソウマの声は変わらなかった。
優しく言い直した感じもしない。
レイが何か言うかと思ったが、彼は椀の縁を見ていた。

「できないことを、もうないことにしては出せない。私が送り出すなら、帰ってくるところまで考える」

シズクは自分の指を膝の上で丸めた。
任務を終えて家へ帰るところは、考えた。
帰ってこられないことは、なるべく考えないようにしていた。

「じゃあ、何ができたら」
「今ここで、一つ決めれば済む話ではない」

ソウマは少し言葉を切った。

「稽古の様子を確かめずに、できるようになるとも言えない」
「……はい」
「だが、一滴だから一生無理だと決めたわけでもない」

シズクは顔を上げた。
期待しすぎてはいけないと思った。
でも、上げてしまった顔を戻すのも嫌だった。

「どうしたら増えるか、わかりますか」

聞く声が小さくなる。
ソウマは、首を横に振った。

「今の話だけでは、わからない」

村でいちばん強い人にも、わからない。
シズクの胸に、がっかりした気持ちと、変にほっとした気持ちが一緒に来た。
自分の知らない簡単な答えが、ここに置かれていたわけではなかった。

母が鍋の蓋を閉めた。
ことん、と小さな音がする。

「難しい話をするなら、食べてから。みんな冷めますよ」

ソウマが自分の椀へ目を落とした。

「失礼しました」
「俺が聞いたんだし」
「シズクも」

ミオに言われ、シズクは椀を持った。
小さい椀は、もうほとんど空だった。
それを見たソウマが鍋を見て、母へ向き直る。

「先に、シズクの分を」
「まだありますよ」

ミオはシズクの椀を受け取り、底が隠れるくらいの芋を入れた。
シズクは礼を言って、両手で受け取った。
長になったら腹が減らないわけではない。
任務の話をしたあとでも、自分の腹は減っていた。

食べ終わる頃、レイが兄へ尋ねた。

「今日は、帰り遅い?」
「まだわからない」
「待たないで食べて、って言う?」
「そうしてくれ」

レイは頷いた。
慣れた返事のように見えた。
シズクは、食卓の下で自分の足を引いた。

母が仕事をしている横で食べることはある。
けれど、同じ家の誰かが帰る前に食べ終わるのは、どんな感じなのだろう。
レイの家に誰がいるかを、今ここで聞くのは違う気がした。

ソウマが立ち上がった。

「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
「レイ。帰る時には、ちゃんと礼を言うんだぞ」
「今、言おうとしてた」

兄が弟を見た。
弟が少し顎を引いた。
シズクは、また笑いそうになった。

ソウマは入口で靴を履き、外へ出た。
シズクも見送りに立った。
レイが隣へ来る。

「兄さん」
「何だ」
「次は、もう少しゆっくり食べて」

ソウマは振り返った。
しばらく弟を見てから、頷く。

「時間が取れたらな」

行けるとは言わないのだと思った。
さっきの任務の話でも、わからないことはわからないと言った。
シズクはまだ、その返事を好きにはなれなかった。
でも、今だけ大丈夫だと言われるより、覚えていられそうだった。

ソウマは水路沿いの道へ戻っていった。
村の中の仕事へ戻る背中を、二人で見送った。

「俺と一緒だから、駄目なのかな」

背中が角へ消えてから、シズクは言った。
レイはまだ、そちらを見ていた。

「僕にも任せられないことがあるって、言ってたよ」
「何が?」
「それは、今度ちゃんと聞く」

シズクは返事に迷った。
自分なら、まだできないことはすぐに並べられる。
レイにも、そういう話がある。
それを聞いて少し嬉しくなったのが嫌で、入口の敷居を靴の先でこすった。

「じゃあ、俺も聞く」
「兄さんに?」
「教官にも。何ができてないか」
「たくさん言われるかもね」
「知ってる」

レイがこちらを見た。
シズクは目を逸らさなかった。

「全部いっぺんには、できねえけど」

言うと、レイは自分の小指を曲げた。
今朝、二人で確かめたところだった。

「まず、これ?」
「それは明日もやる」

二人で家の中へ向き直った。
鍋を洗う音が聞こえて、シズクは母を手伝おうと思い出した。
もう、二人とも空腹ではない。

朝の稽古を始めてから、三時間が過ぎていた。
家に戻ると、母が食器を重ねていた。
シズクとレイも手伝い、洗った椀から順に棚へ戻した。水が袖に少しついた。
四つ目の、小さい椀だけが端に残る。
シズクはそれも、ほかの椀の上へ重ねた。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

レイが母に頭を下げた。
それから、シズクを見る。

「また、来てもいい?」
「母さんがいいなら」
「私はいいよ」

返事が早すぎて、シズクは母を睨んだ。
母は知らない顔で、鍋を片づけている。

「じゃあ、また来る」
「芋ばっかでも?」
「うん。シズクの椀、また小さくなるけど」
「次はお前の番だろ」

レイが笑った。
シズクも、今度は椀で隠さずに笑った。

四人で食べるには、少し狭い食卓だった。
次に座る時は、先に籠をもっと奥へ寄せておこう。
小さい椀は、自分でもいい。
それはまだ、レイには言わずにおいた。

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一滴の忍び ― 落ちこぼれ忍者と六つの禁書 ―

ぼる

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