「今日、うちで昼飯食わない?」
言うつもりだった言葉は、印を結んでいる途中に出てきた。
レイの小指が止まる。
シズクは自分の手を見たまま、続きを急いだ。
「母さんが、呼べって」
「今、その話?」
「あとで忘れるかもしれないだろ」
「手順も忘れそうだけど」
レイが笑ったので、シズクは一度、指をほどいた。
朝、母へ紐を返す時にも、ちゃんと誘ってくる、と言ってきたのだ。
昨日預かった短い紐は、よれを戻し終えて、もう母の仕事の布の上にある。
「用事があったら、いいけど」
「ないよ。行きたい」
「……そっか」
「何が出るの?」
「芋」
「芋だけ?」
「汁もある」
鍋の大きさまで話しそうになって、口を閉じた。
レイは、楽しみ、と言って手を上げ直す。
それでようやく、昨日の続きを始められた。
この朝も、いつもの時刻に集まった。
引っかかった小指の位置を確かめ、迷ったら止める。
シズクは三度目に、一滴の水を出した。
大きさは変わらない。
指を揃えられたことと、水が増えることは、やっぱり別らしかった。
一時間で稽古を終える頃には、腹が鳴った。
レイに聞こえたかと思ったが、本人も腹を押さえていた。
「もう行く?」
「まだ早い。母さん、仕事してるから」
「じゃあ、水路のほう回ろうよ」
二人は水場で手を洗い、稽古場を出た。
今日は指に痛みも震えもない。
シズクは手を振り、先に歩き出した。
水路沿いを遠回りして、二人の靴の影が並ぶまで歩いた。
途中で流れてきた葉っぱを追い越し、曲がり角では追い越された。
走ると腹が減る、とシズクが言った。
歩いても減るよ、とレイが答えた。
結局、最後の道だけ小走りになった。
家の近くまで来たところで、レイが足を止めた。
「兄さん」
シズクも止まった。
水路の向こうから、御影ソウマが歩いてくる。
誰かを連れているわけでも、大きな声を出しているわけでもない。
それなのに、シズクの背中は勝手に伸びた。
十五歳で村の最強となり、長になった人。
今は十八歳。
レイの話に出てくる時は、たった三つの年数なのに、目の前にするとずっと遠い。
ソウマは小さな橋を渡り、二人の前で止まった。
「稽古は」
「終わったよ」
「これから戻るところか」
「シズクの家で食べる」
レイの返事は、いつもと同じだった。
シズクは慌てて頭を下げた。
下げすぎて、靴の先が見えた。
「こ、こんにちは」
「ああ。こんにちは」
顔を上げると、ソウマはシズクより先に、その家の入口を見ていた。
鍋の蓋を持った母が、こちらへ顔を出している。
「ちょうどよかった。もうできてるよ」
「ただいま。レイ、来た」
「見えてる」
ミオがソウマへ挨拶をした。
彼も短く頭を下げる。
「弟が世話になります」
「いえ。よろしければ、一緒にどうですか」
シズクは母を見た。
レイも母を見た。
ソウマだけが、来た道へ一度目を戻した。
「長居はできません」
「召し上がる間だけでも。まだお昼は?」
「まだです」
レイが兄の袖を引いた。
「食べていけば」
「お前は先に入れ」
「兄さんも入るなら」
袖を離さないまま、レイが戸口へ向いた。
強く引っ張っているようには見えない。
ソウマは少し間を置いてから、ミオへ向き直った。
「では、少しだけ」
村でいちばん強い人が、昼飯を食べに来る。
シズクは入口の段差につまずいた。
普段は、見なくても越えられるのに。
中に入ると、食卓から籠が全部なくなっていた。
母が空けておいてくれた席へ、レイが迷わず座ろうとする。
「そこじゃなくて、こっち」
「どうして?」
「そっちは、ソウマさん」
シズクが示した席を見て、レイが首を傾げた。
「兄さん、どこでもいいと思うけど」
「入口に近いほうが、帰りやすいだろ」
言ってから、帰ってほしいみたいになったと気づいた。
ソウマを見る。
彼は頷いて、その席に座った。
「助かる」
それだけで、シズクは少し息ができた。
椀は三つ、用意してあった。
シズクは棚から四つ目の椀を取った。ほかより少し小さい。
一度ソウマの前へ置きかけて、やめた。
自分の大きい椀をそちらへ滑らせ、小さいほうを手元へ引く。
母はそれを見ていたが、何も言わなかった。
昨日より大きい鍋を食卓の近くへ運び、順番によそう。
芋が、ちゃんとたくさん入っていた。
汁の底に沈んでいても、匙を入れるたびに出てくる。
三人のつもりで作ったものだから、四人なら少しずつ減る。
でも、鍋の底はまだ見えなかった。
「足りなかったら言ってね。すぐには増えないけど」
「母さん」
「言わないで足りないほうが困るでしょう」
レイが笑った。
ソウマも、ほんの少しだけ目を細めた。
シズクには、それが笑った顔なのか、湯気が目に入ったのか、わからなかった。
四つの椀が、食卓に並んだ。
「いただきます」
レイの声のあとに、ソウマの低い声が重なる。
シズクも慌てて言った。
母が、どうぞ、と返す。
最初のうちは、食べる音ばかりだった。
シズクはいつもより小さく芋をかじった。
レイはいつもより丁寧に食べているように見えたが、二口目にはもう母に話しかけていた。
「おいしいです」
「よかった。シズクは、熱いしか言わないから」
「昨日のは熱かったんだよ」
「今日も熱いよ」
レイが息を吹きかけた。
ソウマは、その間にもう半分ほど食べていた。
「兄さん、そんなに急がなくても」
「急いでない」
「僕、まだ芋一つだよ」
「喋っているからだ」
シズクは口に入れた芋を飲み込む前に笑いそうになった。
レイがこちらを見たので、椀で口元を隠した。
兄弟の会話なのだ。
わかっていたけれど、ソウマの返事を聞くまで、うまく想像できていなかった。
この人にも、喋りながら昼飯を食べる弟がいる。
その弟と、自分はさっきまで葉っぱを追いかけていた。
ミオがソウマの空いた椀を見た。
「もう少し、どうですか」
「ありがとうございます。では」
椀が渡される。
その動きを見て、シズクはつい口を開いた。
「長でも、おかわりするんですね」
レイが吹き出した。
シズクは、自分の言ったことが聞こえなかったことにならないかと思った。
ソウマは空の手を膝へ置き、シズクを見た。
「腹は減る」
「そりゃ、そうですよね」
ミオがおかわりをよそっている。
何でもないやり取りのはずなのに、レイはまだ笑っていた。
「シズク、兄さんを何だと思ってたの」
「別に。何も」
「昼飯いらない人?」
「そこまで言ってねえよ」
ソウマが受け取った椀を持ち直した。
シズクは、その手を見た。
指が何本も多いわけではない。自分と同じ形をしている。
その手で、どんな忍法を使うのだろう。
知りたくなった。
今なら聞けるかもしれないと思って、喉の奥が固くなった。
「……ソウマさん」
顔がこちらを向く。
シズクは椀を置いた。
「俺も、そのうち、任務に出られますか」
「どんな任務だ」
思っていた返事と違った。
「レイと一緒に」
「誰と行くかではなく、何をするかだ」
レイが椀を下ろした。
母も、口を挟まずにいる。
何をする。
シズクは、遠くの道を走る自分を思い浮かべた。
隣にはレイがいて、二人とも今より速い。
誰かに助かったと言われ、仕事の金を持って帰る。
そこまでは、何度も考えた。
その間で何をしているのかは、うまく形にならなかった。
「困ってる人を、助けるとか」
「危ない場所でも?」
「……はい」
ソウマは、すぐには頷かなかった。
「今の二人を、危険な場所へ一緒に出すことは認められない」
二人。
シズクはレイのほうを見かけて、やめた。
自分がいるから、レイまで駄目になる。
そう思うと、食べたものが腹の中で重くなった。
「俺が、一滴しか出せないから」
「それだけではない」
「でも、レイなら」
「弟にも、まだ任せられないことがある」
ソウマの声は変わらなかった。
優しく言い直した感じもしない。
レイが何か言うかと思ったが、彼は椀の縁を見ていた。
「できないことを、もうないことにしては出せない。私が送り出すなら、帰ってくるところまで考える」
シズクは自分の指を膝の上で丸めた。
任務を終えて家へ帰るところは、考えた。
帰ってこられないことは、なるべく考えないようにしていた。
「じゃあ、何ができたら」
「今ここで、一つ決めれば済む話ではない」
ソウマは少し言葉を切った。
「稽古の様子を確かめずに、できるようになるとも言えない」
「……はい」
「だが、一滴だから一生無理だと決めたわけでもない」
シズクは顔を上げた。
期待しすぎてはいけないと思った。
でも、上げてしまった顔を戻すのも嫌だった。
「どうしたら増えるか、わかりますか」
聞く声が小さくなる。
ソウマは、首を横に振った。
「今の話だけでは、わからない」
村でいちばん強い人にも、わからない。
シズクの胸に、がっかりした気持ちと、変にほっとした気持ちが一緒に来た。
自分の知らない簡単な答えが、ここに置かれていたわけではなかった。
母が鍋の蓋を閉めた。
ことん、と小さな音がする。
「難しい話をするなら、食べてから。みんな冷めますよ」
ソウマが自分の椀へ目を落とした。
「失礼しました」
「俺が聞いたんだし」
「シズクも」
ミオに言われ、シズクは椀を持った。
小さい椀は、もうほとんど空だった。
それを見たソウマが鍋を見て、母へ向き直る。
「先に、シズクの分を」
「まだありますよ」
ミオはシズクの椀を受け取り、底が隠れるくらいの芋を入れた。
シズクは礼を言って、両手で受け取った。
長になったら腹が減らないわけではない。
任務の話をしたあとでも、自分の腹は減っていた。
食べ終わる頃、レイが兄へ尋ねた。
「今日は、帰り遅い?」
「まだわからない」
「待たないで食べて、って言う?」
「そうしてくれ」
レイは頷いた。
慣れた返事のように見えた。
シズクは、食卓の下で自分の足を引いた。
母が仕事をしている横で食べることはある。
けれど、同じ家の誰かが帰る前に食べ終わるのは、どんな感じなのだろう。
レイの家に誰がいるかを、今ここで聞くのは違う気がした。
ソウマが立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
「レイ。帰る時には、ちゃんと礼を言うんだぞ」
「今、言おうとしてた」
兄が弟を見た。
弟が少し顎を引いた。
シズクは、また笑いそうになった。
ソウマは入口で靴を履き、外へ出た。
シズクも見送りに立った。
レイが隣へ来る。
「兄さん」
「何だ」
「次は、もう少しゆっくり食べて」
ソウマは振り返った。
しばらく弟を見てから、頷く。
「時間が取れたらな」
行けるとは言わないのだと思った。
さっきの任務の話でも、わからないことはわからないと言った。
シズクはまだ、その返事を好きにはなれなかった。
でも、今だけ大丈夫だと言われるより、覚えていられそうだった。
ソウマは水路沿いの道へ戻っていった。
村の中の仕事へ戻る背中を、二人で見送った。
「俺と一緒だから、駄目なのかな」
背中が角へ消えてから、シズクは言った。
レイはまだ、そちらを見ていた。
「僕にも任せられないことがあるって、言ってたよ」
「何が?」
「それは、今度ちゃんと聞く」
シズクは返事に迷った。
自分なら、まだできないことはすぐに並べられる。
レイにも、そういう話がある。
それを聞いて少し嬉しくなったのが嫌で、入口の敷居を靴の先でこすった。
「じゃあ、俺も聞く」
「兄さんに?」
「教官にも。何ができてないか」
「たくさん言われるかもね」
「知ってる」
レイがこちらを見た。
シズクは目を逸らさなかった。
「全部いっぺんには、できねえけど」
言うと、レイは自分の小指を曲げた。
今朝、二人で確かめたところだった。
「まず、これ?」
「それは明日もやる」
二人で家の中へ向き直った。
鍋を洗う音が聞こえて、シズクは母を手伝おうと思い出した。
もう、二人とも空腹ではない。
朝の稽古を始めてから、三時間が過ぎていた。
家に戻ると、母が食器を重ねていた。
シズクとレイも手伝い、洗った椀から順に棚へ戻した。水が袖に少しついた。
四つ目の、小さい椀だけが端に残る。
シズクはそれも、ほかの椀の上へ重ねた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
レイが母に頭を下げた。
それから、シズクを見る。
「また、来てもいい?」
「母さんがいいなら」
「私はいいよ」
返事が早すぎて、シズクは母を睨んだ。
母は知らない顔で、鍋を片づけている。
「じゃあ、また来る」
「芋ばっかでも?」
「うん。シズクの椀、また小さくなるけど」
「次はお前の番だろ」
レイが笑った。
シズクも、今度は椀で隠さずに笑った。
四人で食べるには、少し狭い食卓だった。
次に座る時は、先に籠をもっと奥へ寄せておこう。
小さい椀は、自分でもいい。
それはまだ、レイには言わずにおいた。
