家に帰ると、シズクの座る場所に籠が座っていた。
いつもの席だけではない。
食卓の下にも、壁際にも、大きいのや小さいのが口を開けている。入口で足を止めたシズクは、そのうちの一つとしばらく睨み合った。
「俺、外で食うの?」
「その蓋つきのを、こっちへ持ってきて」
奥から母の声がした。
水瀬ミオは床に敷いた布の上で、ほどいた紐をより分けていた。片膝に置いた木箱の角を押さえ、浮いた板が戻らないようにしている。
「ただいま」
「おかえり。手、洗ってからね」
先に言ってほしかった。
シズクは籠へ伸ばしかけた手を引っ込めた。
水甕の水で泥を落とし、指の間を確かめる。
まだ少しだるい。でも、開くとちゃんと開いた。
母に見せるため、というわけではない。洗い残しがないか見ただけだ。
「今日は早かったね」
「いつもが長いんだって」
「誰に言われたの」
「レイ」
シズクは布で手を拭いた。
母は、そう、とだけ言った。
自分が何度も言ってきたことだとは言わなかった。言われなかったぶん、シズクのほうが覚えていた。
蓋つきの籠を、両手で持ち上げる。
空っぽで、軽い。
角の編み目が一か所ほどけ、蓋を留める紐がだらりと下がっていた。
「ここ?」
「私の左。そう、そこ」
「直すやつ?」
「預かってるものは、全部そう」
籠の底には、薄くなった墨の印があった。
端の編み目だけ色が違う。そこは前にも直したのだと、シズクにもわかった。
「これ、また来たんだ」
「今度は蓋だね」
「新しいのにすりゃいいのに」
ミオは木箱を押さえたまま、籠を見た。
「その大きさが、ちょうどいいんだって」
「何入れるの」
「今日は空で来たから、わからない」
何でも知っているわけではないらしい。
シズクは籠を持ち直した。自分なら、何を入れるだろう。
忍具を並べたところまで考えて、蓋が閉まらないことに気づく。そもそもまだ忍具を持っていない。
昼飯なら、何人ぶんも入りそうだった。
「ちゃんと直してって言ってた?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと直さないとな」
母がこちらを見た。
「いつも、そうしてるよ」
シズクは慌てて頷いた。
前に直したところへ指を滑らせる。ほかより新しい色なのに、引っかからない。
母が編み足した端は、ちゃんと内側へ隠れていた。
自分が持ってきた時には、壊れた場所ばかり目についた。
直ったほうは、そのまま使えてしまうから気づかない。
シズクは籠の底をもう一度見て、母のほうへ運ぶ時だけ、少しゆっくりにした。
足元へ置くと、ようやく自分の席が空いた。
けれど座ろうとしたところに、母が小さな籠を移した。
「……母さん」
「ちょっとだけ」
ちょっとが長くなるのを、シズクは知っている。
その間に台所を覗いた。鍋から何かいい匂いがしていたが、蓋がしてあって見えない。
「腹減った」
「もう少し。先に片づけるから」
「何かやる」
「指は?」
「動く」
ミオの手が止まった。
シズクは両手を開いて見せた。
「痛くない。重いのじゃなきゃ平気」
「じゃあ、この紐のねじれを戻して。引っ張るだけなら、やらなくていい」
母から渡されたのは、籠の蓋についていた長い紐だった。
片端は蓋につながったままで、途中がぐるぐるとよれている。
シズクは床に座り、指の腹で少しずつほぐした。
「レイと、何してた?」
「稽古」
「それは知ってる」
「教え方、考えてきた」
地面に描かれた魚の骨が浮かんで、口元が緩んだ。
母に伝えようとして、手の絵のことはやめた。
描いてくれたレイのいないところで笑うのは、少し違う気がした。
「水を出さずに、手だけ見せてもらった」
「うん」
「俺、わかってないとこで、待ってって言った」
ミオは木箱の角を押さえ直しながら、こちらを見た。
「待ってくれた?」
「くれた」
「よかった」
それだけだった。
偉かったねと言われたら、たぶん、そんな大したことじゃねえよと言っていた。
言われなかったので、シズクも続きが言えた。
「明日も、そこでやる」
「いつものところ?」
「うん。同じ時刻」
紐のよれが、一つほどけた。
次のところを持ち替える。
母は木箱を壁際に置き、シズクの前へ手を出した。
「そこまででいいよ」
「まだ端が残ってる」
「残りは私がやるから」
渡しかけて、シズクは手を止めた。
編み目の隙間に、小さな結び目が引っかかっていた。これを抜けば、残りも一度に戻せそうだった。
「ここ、引けば取れる」
答えを待たず、紐を引いた。
結び目は動かなかった。
もう一度、さっきより強く引く。
ぱき、と乾いた音がした。
籠の縁が、少しだけ内側へへこんだ。
蓋の端が浮く。
シズクは両手を止めた。
母も、何も言わなかった。
その沈黙が嫌で、シズクは蓋を押さえようとした。
「待って」
指が止まる。
「今、押さえるとそこも曲がる」
ミオが籠を引き寄せた。
横から覗き、縁を指でなぞる。
割れたのかもしれない。預かったものなのに。自分の席にあった時には、こんなふうにはなっていなかった。
「……俺が直す」
「まず、手を離して」
シズクは紐を離した。
母はへこんだ縁を裏から支え、引っかかった結び目を確かめた。
「編んであるところを、引き寄せちゃったね」
「折れた?」
「裂けてはいない。戻せる」
胸の奥が、少し緩んだ。
すぐに、手を出したくなる。
「俺も」
「手伝うなら、言ったところだけ持って」
今度は返事をしてから持った。
ミオは籠の内側に手を入れ、結び目の根元へ、ほんの少し紐を送り戻した。
さっきまで動かなかったところに隙間ができる。
「そこの木べら、取ってくれる?」
シズクは布の上から、先の平たい小さな木べらを取った。
母が指で示した隙間へ先を差し入れる。
力を入れかけて、顔を上げた。
「この向き?」
「そう。そのまま待って」
母が紐を緩め、シズクが隙間を保つ。
固まっていた結び目が、少しずつほどけた。
抜けた拍子に蓋が落ちかけ、二人で受け止める。
「危なかった」
「持つところ、変えるよ」
母は、シズクの手が移るまで動かさなかった。
籠の縁はゆっくり元の形へ戻った。
最後にミオが編み目を整えて蓋を合わせると、浮いていた角も収まった。
シズクは木べらを元の布へ戻した。
籠には、壊す前より長く触っていた気がする。
腹は、もっと減っていた。
「ごめん」
「うん。次は引く前に呼んで」
「早く終わらせようと思って」
「私も早く終わらせたいよ」
母の腹が鳴った。
シズクは顔を上げた。
ミオも、自分の腹を見ていた。
「ほらね」
笑うつもりはなかったのに、声が出た。
母も少し笑って、今度こそ食卓の席を空けた。
鍋の中は、芋と薄く切った野菜の汁だった。
蓋を取ると湯気が顔へ上がってきて、シズクは鼻を近づけすぎた。
母に肩を押し戻される。
「熱いよ」
「知ってる」
言ってから、少し黙った。
本当に知っていることまで言い直すのは、おかしい。
それでも、今のはわかってる、とレイに言った時の顔を思い出した。
ミオが二人の椀によそった。
シズクのほうへ、大きな芋が一つ入る。
母のほうには、小さいのが二つ。
シズクは並んだ椀を見た。
大きいの一つと、小さいの二つ。
どちらが多いか、すぐにはわからない。
「母さん、それで足りる?」
「おかわりあるよ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」
うまく言えず、自分の椀を手前へ引いた。
母は熱い汁を冷ましている。
その指に、紐の跡が細く残っていた。
忍者になって、仕事で金をもらったら。
母が預かった籠を全部並べなくてもいいようにしたかった。
それなのに、今できたのは、一つ余計に直させることだった。
「俺、明日は稽古やめて、こっちやろうか」
言った途端、明日のレイの顔が浮かんだ。
説明を考えてきて、一人で待っている。
先に伝えればいい。今からでも会いに行けば。
ミオは椀を置いた。
「さっき、行くって言ってたね」
「昼まで手伝えば、もっと終わるだろ」
「今日の分は、今日やるよ」
「明日の分」
「それは、明日の私の仕事」
母はシズクの椀を指さした。
「まず、食べて。考えるなら食べてから」
断られたのか、あとで話すつもりなのか、わからなかった。
シズクは芋にかじりつき、思ったより熱くて口を開けた。
ミオが、自分の椀のほうへ視線を落とした。
肩が少し揺れている。
「笑っただろ」
「冷ましてって、言ったらよかったね」
「熱いのは知ってた」
今度は、自分でも変な返事だと思った。
しばらく、二人で黙って食べた。
外の水路を、何かが流れていく音がした。家の前を通る足音も聞こえる。
食卓から見える入口は、半分だけ開いていた。
稽古へ行く時、シズクが勢いよく開けたままの形だった。
「おかわりは?」
ミオが聞いた。
シズクは鍋を見た。
まだ残っている。母の椀にも、もう一度よそえるくらい。
「母さんが先」
「じゃあ、半分ずつ」
「俺のほうが少なくていい」
母の手が止まった。
「お腹いっぱい?」
「まだ」
「なら、半分ずつ」
同じくらいの汁が、二つの椀に入った。
最後に鍋の底へ残った芋を、母が匙の縁で二つに割る。
片方は、少し大きかった。
「そっち、母さん」
「はいはい」
小さいほうを受け取ったシズクは、少しだけ勝った気になった。
ミオは何も言わず、大きいほうを食べた。
「修繕、嫌いになった?」
母が聞いたのは、食べ終わる少し前だった。
シズクは首を振った。
「好きだけど」
「うん」
「それだけにするのは、嫌だ」
言って、母を見る。
仕事を嫌だと言ったみたいに聞こえただろうか。
ミオは椀の底を確かめてから、頷いた。
「なら、明日は稽古へ行っておいで」
「でも」
「手伝ってほしい時は、ちゃんと頼む。今日みたいに」
シズクは壁際の籠を見た。
急いで紐を引いたところは、もうわからなかった。
自分が余計なことをした時間まで、消えたわけではない。
「さっきのも、頼んだ?」
「ねじれを戻してって頼んだ」
「……結び目は?」
「頼んでない」
母の返事は早かった。
シズクは鼻を鳴らし、椀の底の野菜を口に入れた。
食器を下げると、母は仕事の布を広げ直した。
シズクは洗った椀を逆さに並べた。
自分のと、母の。
少し間を空けると、もう一つ置ける。
「レイって、何が好きかな」
振り向くと、母は籠の蓋へ紐を通していた。
「食べ物?」
「うん。明日、お昼に呼んだら?」
「ここに?」
「ほかに、うちがある?」
シズクは入口を見た。
そこからレイが入ってきて、食卓の前に座る。
稽古場で隣にいるのとは、少し違う感じがした。
「食べる場所、ある?」
「籠はどける」
「俺の席にも戻すなよ」
「お客さんの席には置かないよ」
「俺の席だって」
ミオは紐を引きすぎないように締め、蓋を二度開け閉めした。
それから、頼んでもいないのに座っていた籠を、壁際の籠の上へ重ねた。
ちゃんと一人ぶん、席が空いた。
空いた席に、シズクは一度座ってみた。
いつもより入口が見える。
レイが戸口に立ったら、ここだぞと手を上げればいい。
考えてから、まだ誘っていないことを思い出し、立ち上がった。
「まだ来るって言ってない」
「明日聞いて。用事があったら、また今度」
「うん」
軽く返事をしたつもりだった。
もう、稽古場で何と言うか考えていた。
母さんが呼べって言った。そう言えば、自分が呼びたいみたいにはならない。
でも、来なくてもいい、とまでつけたら、レイは本当に帰るかもしれない。
「手伝ってもらうお礼?」
「一緒に食べたいからじゃ、駄目?」
「母さんが?」
「シズクは?」
答えず、伏せた椀の間をもう少し広げた。
水が一筋、食卓の端へ流れた。
布で拭いてから、シズクは言った。
「芋、今日より多めにして」
「たくさん食べるの?」
「知らない。俺も食うし」
母は笑わなかった。
鍋を覗き、明日はもう少し大きいのを使おうか、と言った。
稽古を終えてから、二時間が過ぎていた。
シズクの指のだるさは薄れていた。痛みはない。
手を洗う時に曲げ伸ばしすると、朝、レイと確かめた形がすぐに作れた。
水は出さなかった。
ここで始めたら、食卓が濡れる。
ミオが、さっきの籠を入口の横へ置いた。
蓋はぴたりと収まっている。
シズクは邪魔にならないところまで下がり、母が次の仕事を手元へ寄せるのを見ていた。
「母さん」
「何?」
「紐、まだほどくのある?」
母は手元を見回し、短い紐を一本選んだ。
「これなら。結び目は触らないでね」
「わかってる」
受け取る前に、今度はどこまでか聞いた。
母が示したところを指で挟み、シズクは食卓の端に座った。
明日は、まず引っかかった指の形から。
その次に、昼飯の話をする。
レイが来るなら、ここに座らせよう。籠を置かれないほうの席に。
向かいで母が木箱を直す音を聞きながら、シズクは紐のよれを一つ戻した。
