翌朝、稽古場には長い影が二本あった。
一本は、入口で立ち止まったシズクのもの。
もう一本は、地面にしゃがみ込んでいるレイのものだった。
「遅かったね」
「昨日と同じ時刻だろ」
「僕も」
「じゃあ、同時だ」
「しゃがむ時間のぶん、僕が先じゃない?」
シズクは返事をせず、レイの前へ回った。
地面に、人らしきものが描いてある。丸い頭から太い棒が二本伸び、その先に、指のような短い線がいくつも生えていた。
「……何これ」
「説明」
「魚の骨かと思った」
レイが黙ったので、シズクは慌ててしゃがんだ。
せっかく考えてきた説明だった。笑うつもりはなかった。少しはあったが、やめてほしくはない。
「手?」
「手」
「こっちは?」
「反対の手」
レイは脇に置いていた細い枝を拾い上げ、地面に一本線を足した。
指が六本になった。
シズクは口を閉じたまま、鼻から変な音を出した。
「今、笑った?」
「息した」
レイは枝で余分な線を消した。
爪の先に乾いた泥がついている。こんなに早く来て、地面に手の絵を描いていたのかと思うと、シズクはもう笑えなかった。
「ちゃんと聞く」
「最初から、そのつもりで来てよ」
昨日のだるさは、一晩眠ったらなくなっていた。
シズクは確かめるように指を曲げた。引っかかるところも、痛むところもない。
水場のほうから、石鉢を叩く水音が聞こえた。
あの樋は、まだちゃんと水を流している。
「今日は、流れも感じも言わないんだろ」
「言わない。できるだけ」
「できるだけって何だよ」
「言ったら止めて」
レイは枝を足元に置き、自分の手を胸の前へ持ち上げた。
「まず、ここまで。指を組んだら、待って」
シズクも真似をする。
親指を合わせ、人差し指を重ねる。そこまではいつもと同じだった。
レイはまだ次の指を動かさない。
シズクが小指を曲げかけると、首を振った。
「早いよ」
「お前、いつもこのくらいじゃん」
「今日は、いつもの速さでやらない」
待った。
待っていると、合わせた指の腹が汗ばんだ。
間違っている気がして、押しつけ直したくなる。
「次。息を吸って」
吸った。
「それから、少しずつ吐きながら――」
シズクは息を吐いた。
同時に、小指を折った。
最後の形へ進み、掌を上に向ける。
水が出るはずの場所には、何もなかった。
「吐きながら、何?」
「今から言うところだった」
二人で、シズクの乾いた掌を見た。
「遅い」
「シズクが早いんだよ」
昨日とは逆だった。
レイは一息でできることを細かく切ろうとして、言葉が追いつかない。
シズクは言葉を待とうとして、いつもの手順がわからなくなる。
もう一度。今度はレイが先に全部説明した。
聞いている間は、難しくなさそうだった。
「わかった?」
「うん」
印を結ぶ。
待つ。
息を吸う。
次のところで、シズクは止まった。
吐きながら指を曲げるのか、曲げてから吐くのか。
さっき聞いたはずなのに、どちらも違う気がする。
レイは見ている。
もう一度聞くのは、何だか嫌だった。
シズクは息を止めたまま小指を折り、勢いよく掌を開いた。
一滴が生まれた。
けれど、手を開く勢いで横へ転がり、小指の脇から地面へ落ちた。
「今、息を止めてたね」
「ちょっとだけ」
「全部」
レイに言われて、ようやく息を吐いた。
胸が苦しかった。
水はいつもどおり小さい。しかも、見せる前になくなってしまった。
シズクは手を膝で拭いた。
「もう一回」
今度は息を吐くことばかり気にして、指の順番を間違えた。
次は、掌を開く前に肩が上がった。
その次は一滴出たが、昨日の水より大きいようには見えなかった。
レイが何か言いかけるたび、シズクは先に印を結び直した。
地面の手の絵を、膝で半分消してしまった。
気づいて位置をずらすと、今度は足で頭を踏んだ。
「ごめん」
「いいよ。もう描かないから」
レイはそう言って、枝を石塀のそばへ転がした。
シズクは、その言葉が少し気になった。
図を描くのをやめるだけだとわかっている。それでも、次には教えるのもやめると言われそうで、口を開けなかった。
レイが立ち上がった。
「一度、僕のを見て」
印を結び、掌を開く。
そこに丸い水ができるまで、まばたき一回ぶんもかからなかった。
昨夜考えたという説明は、一つも口にしない。
透き通った球が、朝の光を映していた。
「最後の指を動かす時に、力を――」
水の球が、レイの指の間で少し縦に伸びた。
すぐに丸く戻る。
シズクはそれを見ていた。
どれだけ薄く伸ばしても、地面へ落ちない。掌を傾けたって、ちゃんと形が残っている。
自分の水なら、とっくに袖を濡らしている。
「ここで止めるんだ。わかった?」
「うん」
「じゃあ、やってみて」
シズクは両手を合わせた。
レイがまだ水を持っているので、そちらを見ないようにする。
同じ指の形にして、同じように掌を開いた。
一滴。
今度は動かさなかったから、掌の真ん中に残った。
「その前。僕が止めたところは?」
シズクはレイを見た。
「……もう一回、見せて」
レイは、すぐには動かなかった。
水の球を木桶へ落とす。
その音に、シズクは目を伏せた。
「わかってなかった?」
うなずくのも嫌だった。
わかっていたなら、やって見せればよかった。
シズクは掌に残った一滴を、桶の内側へそっと落とした。
レイの水が濡らした場所と、見分けがつかなくなった。
「水、見てた」
「僕の?」
「大きいから」
口にしてみると、ひどく間抜けだった。
レイはわざわざ朝早く来て、図まで描いたのだ。
その説明を聞かずに、水の大きさを見ていた。
怒られても仕方がない。
「じゃあ、手は見てなかったんだ」
「ちょっとは」
「どのへん?」
シズクは答えられなかった。
レイは眉を寄せた。怒っている顔というより、さっき魚の骨と言われた時の顔だった。
「わかったって言うから、次に行っちゃった」
「何回も聞いたら、面倒だろ」
「わかったと思って説明するほうが、難しいよ」
レイは石塀に背中をつけた。
シズクも、少し離れて立った。
昨日直した樋の水音が聞こえる。
あの竹なら、濡れた土を見れば、どこがおかしいのかわかった。
今は、自分のどこから直せばいいのかもわからない。
「ごめん」
そう言うと、レイが首を横に振った。
「僕も。水、出さないで見せればよかった」
「そんなのできんの?」
「手だけなら」
レイは両手を上げた。
指を重ねて、止める。
水は出ていない。
「ここまで」
シズクも手を上げた。
レイの指を見る。今度は、ほかに見るものがなかった。
同じ形を作って、待つ。
「できた?」
「できた」
「次は――」
「待って」
言ってしまってから、胸がどきっとした。
レイは動きを止めた。
「何?」
「親指、どっちが上?」
聞こえてくる水音が、やけに大きい。
そんなことも覚えていないのか、と言われる気がした。
レイは自分の手を裏返し、シズクから見えるように傾けた。
「こっち。僕は右」
「ちょっと見せて」
シズクは指を一本外して、合わせ直した。
いつも左の爪を右の指へ押しつけていたところに、少し隙間ができた。
それだけで、長く同じ形を保ちやすくなった。
「……できた」
レイが次の指をゆっくり動かす。
シズクはそのあとを追った。
今度も少し迷って、待って、と言った。
さっきよりは小さい声にならなかった。
水を出すところまでは進まない。
途中で全部ほどいて、最初からもう一度。
三回目には、レイが先に進みかけたのをシズクが止めた。
「まだ。俺、小指が引っかかってる」
「見せて」
レイが覗き込み、二人で指の位置を確かめた。
こんなことなら、もっと早く聞けばよかった。
そう思ったところで、シズクは少し腹が立った。
聞けなかった自分にも、聞けば済むと思っていたレイにも。
けれど、どちらに怒ればいいのか考えているうちに、レイの小指がつりそうになった。
「ちょっとほどいていい?」
「天才でも、指つるんだ」
「曲げたまま喋ってたらね」
シズクは笑った。
今度は、隠さなかった。
レイは指を振りながら、石塀の低い段に腰を下ろした。
シズクも隣に座ろうとして、レイの背中を指でつついた。
「そこ、濡れてる」
レイが腰を浮かせた。
段のくぼみに、水が残っている。
服の裾には、小さな染みができていた。
「先に言ってよ」
「先に座ったんだろ」
場所をずらして座り直すと、レイは裾を引っ張って確かめた。
後ろなので、自分ではよく見えないらしい。
首をひねるたび、シズクの肩に肘が当たる。
「どのくらい?」
「そのくらい」
シズクは親指と人差し指で輪を作った。
レイが顔をしかめたので、少しだけ輪を広げた。
「今、大きくした」
「気のせい」
「水も、それで増やせたらいいのに」
シズクはレイの肩を押した。
レイが押し返してくる。段から落ちそうになって、二人ともやめた。
水を出す勝負なら、一度だって勝てない。
こうして肩をぶつけている時は、同じくらいなのに。
「乾くまで帰れないな」
「そんなに濡れてないよ」
レイはまた、背中を見ようとして首を曲げた。
シズクは輪を小さく戻してやった。
今度は、ちゃんと見えたとおりに。
二人の足先が、段の下で並んだ。
レイの靴にも泥がついていた。
シズクは自分の靴の先で地面をこすり、同じ形の跡をつけた。
少し休んでから、水を出すところまで試すことにした。
レイはシズクの隣へ立つ。正面にいると左右が逆になるからだ。
肩を並べると、手の大きさはそんなに違わなかった。
「僕より早く進まなくていいから」
「わかってる」
レイがこちらを見た。
シズクは言い直した。
「今のは、わかってる」
印を結ぶ。
引っかかったところで止まり、組み直す。
息を吸って、吐く。
今度は、レイが最後まで説明してから掌を開いた。
水が生まれた。
昨日と変わらない、小さな一滴。
シズクは手を動かさなかった。
大きくしようと、指に力を込めかけた。
そこでやめた。
水は増えなかったが、横へ転がることもなかった。
「……これで、合ってる?」
レイが覗き込む。
「手順は、今のほうが僕に近かった」
「量は同じだけど」
「うん」
レイは、そこをごまかさなかった。
シズクも、大きくなったようには見せなかった。
一滴の底で、自分の掌の線が曲がって見えた。
「もう一回なら、できるかも」
桶へ水を落とし、最初からやり直す。
今度は途中で息を止めてしまい、何も出なかった。
思ったより悔しくて、シズクは鼻を鳴らした。
隣でレイが、自分の指を動かしている。
「どこで止まった?」
「息を吐くとこ」
「その前は?」
シズクは、さっきの順番を口に出してみた。
指を組む。待つ。吸う。
そこまでは覚えている。
「……次の指が気になって、忘れた」
「じゃあ、そこからやってみよう」
レイはまた、手だけを動かした。
シズクはそれを見て、息を吐いた。
水が増える気配は、相変わらずなかった。
それでも、今度はどこでわからなくなったのか、自分の言葉で言えた。
稽古を始めてから、一時間が過ぎた。
シズクは両手を下ろした。今日はまだ、指が震えるほどには使っていない。
掌を開いたり閉じたりすると、少し疲れてはいたが、痛くはなかった。
レイは地面に残った手の絵を見下ろしている。
半分踏み消された人の形は、最初より魚の骨に似ていた。
「これ、明日も描く?」
シズクが聞くと、レイは首を振った。
「別の説明を考える」
「じゃあ、俺も考える」
「何を?」
「どこがわからなかったか」
レイは少し考えてから、うなずいた。
「それ、先に教えて」
シズクは足の裏で、地面の絵をならした。
消していいか、目で聞く。
レイがうなずいたので、残りも消した。
明日は、自分がわからなかった指のところだけ、描いてもらえばいい。
両手全部の絵は、たぶんいらない。
「俺さ」
踏みならした土を見たまま、シズクは言った。
「そのうち、お前と同じ任務に行きたい」
レイの返事が、少し遅れた。
顔を上げると、こちらを見ていた。
「同じ?」
「俺だけ、荷物持ちとかじゃなくて」
自分で言って、恥ずかしくなる。
一滴しか出せないくせに、話だけずいぶん先だった。
レイが先にどこかへ行く前に、追いつきたい。
それをうまく言う言葉がなかった。
「じゃあ、僕も荷物は持つよ」
「そういう話じゃねえよ」
「わかってる」
シズクが睨むと、レイは笑った。
今日、自分が何度も言った言葉だった。
本当にわかったのかと聞こうとして、やめた。
レイはもう一度両手を上げ、今日いちばん引っかかった指の形を作っていた。
「明日は、ここからにしよう」
シズクも隣で同じ形を作った。
小指が少し遅れたので、今度はすぐに言った。
「待って」
レイの手が止まった。
シズクは指を組み直した。
明日も使う形を、二人で一度だけ確かめた。
