顔も知らない隣のおばあさんが、毎朝、私の服を言い当てて見送ってくれる。
日当たりのいい角部屋が決め手で、春から一人暮らしを始めた。
挨拶には行っていない。留守だったからだ。
それなのに、朝、鍵をかけた直後に、決まって声がする。
「いってらっしゃい。今日は青いカーディガンね」
声はいつも、私の背中のすぐ後ろから届く。
振り向いても、廊下には誰もいない。耳が遠くて、顔を出すのが億劫なのだろう。
「寒いから、もう一枚着ていきなさい」
「傘、忘れてるわよ」
母に話すと、「いいご近所さんね」と笑った。
私もそう思った。知らない街で、朝に声をかけてもらえるのは、うれしかった。
先週、熱で会社を休んだ日も、「ちゃんと寝てなさいね」と声がした。
お礼のお菓子を渡したくて、大家さんに電話した。
「隣のおばあさんは、何号室でしょうか」
大家さんは、不思議そうに言った。
「あそこは角部屋ですよ。お隣は、ありません」
