団地の三階、突き当たりの部屋は、父が死んだ日のまま冷えていた。
澪《みお》は軍手をはめ、台所から片付けはじめた。皿は三枚、箸は一膳《いちぜん》。男の一人暮らしの数だった。
冷蔵庫はほぼ空だった。最後に冷凍庫を開けて、澪は手を止めた。
保存容器が、びっしり縦に並んでいる。
どの蓋にもマスキングテープが貼ってあり、太い角ばった字が書いてあった。
「澪 カレー 三月九日」
「澪 肉じゃが 三月十六日」
「澪 豚汁 三月二十三日」
二十個以上ある。全部、澪の名前から始まっていた。
父の敏夫《としお》は四十年、工場で働いた。包丁を握る姿など見たことがない。母が亡くなってからも、夕飯は缶ビールと惣菜だった。
二年前の三月の電話を思い出した。
「ちゃんと食ってるのか」
「最近コンビニばっかり。忙しくて」
「そうか」
それだけで切れた。仕事が詰まっていた。夏も正月も、帰らなかった。
その二年の間に、父は料理を覚えたらしい。
流しの下に、ぼろぼろの料理本があった。塩の欄に、鉛筆で線が引いてある。ページの端に「しょっぱい」「また失敗」と書き込みがあった。
「どうですか、片付いてます?」
玄関から管理人の女性が顔を出した。
「敏夫さん、いつも言ってましたよ。娘が来たら食わせるんだって。毎週作って、凍らせて」
「来ませんでしたけどね」
「ええ。でも毎週作ってました」
澪は返事をしなかった。
容器は日付が新しいほど、字が整っていた。テープを貼る位置も、まっすぐになっていく。
いちばん奥に、一つだけ違うものがあった。
日付は、父が倒れる前の日だった。
「澪 カレー」とは書いていない。
蓋にはこうあった。
「しょっぱかったら水を足せ」
澪は容器を持って、電子レンジの前に立った。
温まるまでの二分が、ひどく長かった。
湯気の立つカレーを、古い卓袱台《ちゃぶだい》に置いた。父の箸で食べた。
一口で、顔をしかめた。確かにしょっぱかった。母の味とは、まるで違う。
澪は蛇口から水を汲んだ。
カレーに少しずつ足して、混ぜた。
足しては混ぜ、味を見て、また足した。
水を足して、全部食べた。
